レッテル貼りをやめると……

前回の続きです。前回の最後に


「わたしたちはレッテル(ラベル)を、上手に利用するか参考程度にしておき、あまり縛られ過ぎないようにした方がいいと思いますよ」


と、書きました。


ではレッテル貼り(ラべリング)を上手に利用するとか、参考程度にするとはどのようなことでしょうか?



レッテルは“肩書き”であるとも言えます。



つまり、レッテルを見ないで相手を評価するということは、肩書きを見ないで相手そのものを評価するということでもあります。



東大卒でも、ダメなヤツはダメ。

学校に行っていなくても、デキるヤツはデキる。



と、いうことになる。ある意味では、レッテルを貼るより厳しい見方かも知れません。



『パーソナリティ(人格)障害』という診断名があります。


パーソナリティ障害というのは、「自分もしくは他人が困ったな」と思っている人のことだと仮定するとして、レッテルから人を判断すると



「パーソナリティ障害だから、この人は困った人だ……」



という先入観ありの見方になります。


それをレッテルなしで人を観てみると



「この人は困った人だ……」



と、その人そのものから評価をするということになります。


この差はとてつもなく大きい。


例えその人が、パーソナリティ障害という診断名が付けられたからと言って、すべての人を困らせるわけではないからです。中には気が合う人もいれば、なくてはならない人、好かれている人である場合も多いのです。



前回述べたように、負のレッテルは“排除の意識”をともなうことが多いですから、ヘタをすれば本人を観ずに、レッテルで排除ということになりかねないという怖れもあります。


何か困ったことが起こりそうなら、あるいは起こったらレッテルを参考にして、傾向と対策を考えればいい。



これが冒頭で述べた


「レッテル(ラベル)を、上手に利用するか参考程度に……」


と、いうことです。


これは『不登校・ひきこもり・ニート』というレッテルでも同じこと。


その他、多くのレッテルでも同じこと。


くれぐれもレッテル・肩書きに縛られ過ぎませんように。




『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)