レッテル貼り(ラべリング)について
「教育に評価はいらない」
とか
「人を評価するのは良くない」
などと言う人がいます。
しかしながら、良かろうと悪かろうと人は人を評価するものです。
評価をバカにしてはいけません。
評価は実に大切です。
自動車の免許やパイロット、医師などの資格は、その知識と能力を評価された人がえるものです。
評価なしに、そういった免許や資格を与えていると、どうなるかというのは考えるだけで恐ろしい。(笑)
友人選びや、結婚相手、商業上の取引なども、相手が信用できると評価をするから、安心してお付き合いができるわけであって、評価なしで誰でも彼でもというわけにはいきません。
良し悪しに関わらす、すべての人は他人を評価しあって生きていると言えるでしょう。
評価は、ときとしてレッテル(ラベル)という形で現れるときがあります。
我々は知らず知らずにうちに、他人にレッテル貼り(ラべリング)をしているということです。
だからある程度レッテル貼りをして人を判断するのは仕方がないのかも知れません。
しかし、不必要、あるいは過剰にレッテルに依存していると、大切なものを見失ってしまうことがあります。
人格障害、アダルトチルドレンなどというのもレッテルであり、場合によっては、医師の診断、学校の成績、他人の評価も、レッテル化することが少なくありません。
良い意味でのレッテルならまだマシなんですけど、負のレッテルっていうのはちょっとコワイときがありますね。
負のレッテルっていうのには、“排除の意識”が入り込んでいるんですよ。
何からの排除であるか?
社会・世間というムラ社会からの排除の意識です。
『民主主義国家』、『国民国家』と言われる社会であれば、国家からの排除ということにもなりかねない。
『不登校・ひきこもり・ニート』が、負のレッテルであるとすれば、
「子どもは学校に行って勉強し、やがて大人になって、たくさん働いて社会や国家に貢すべし。よって不登校は非国民である。排除もしくは矯正の必要がある」
「ひきこもり・ニートは収入を得ておらず、社会や国家に貢献していない。ゆえに非国民である。排除もしくは矯正が必要である」
まあ、「収入を得ておらず、社会や国家に貢献していない。ゆえに……」なんてのは、論理的にはおかしな話しなのですが、このような“排除の意識”が、なんとなく負のレッテル貼りにはあります。
(※わたしは、社会秩序を守るための『排除の理論は正しい』と思っておりますが、単純な“社会秩序のため”“平和のため”“正義のため”の、『排除』の強権利用は、むしろ恐怖であると考えております)
しかし前述したように、わたしたちはどうしても他人に対してレッテルを貼って見てしまう傾向があります。
その方が楽で便利であるからです。また、場合によっては必要なこともある。
で、あるとしたら、わたしたちはレッテルを、上手に利用するか参考程度にしておき、あまり縛られ過ぎないようにした方がいいと思います。
(つづく