人はなぜ生まれてきたのか?

人はなぜ生まれてきたのか?


人生の意味は何か?


なぜ生きるのか?



これらの問いは、人類が発祥してからずっと問われていたことで、おそらくこれからも、人々が問い続けることなのでしょう。


人によって、あるいはその状況によって、それぞれの答えがあり、どの答えも間違ってはいないのであろうと思います。


ですから、これからわたしが書くことは、多くある答えの一つにしか過ぎないことで、「それは違う」という人がいてもいっこうに構いませんし間違っているわけでもありません。


わたしは「すべての人間は、幸せになるために生まれてきた」と考えています。


「幸せ」とは何か?


それは、「気持ちいい」、「いい気分」、「快感」というふうに言い換えても構いません。


わたしたちの日常は、いかに日々を快適に、気持ちよく生きるかということのために、過ごしています。


「快適のためなら、多少の苦しみはいとわない」というのが、多くの人の生活ではないでしょうか?


わたしたちが食事をするのは、ただ生命を維持するためだけではなく、「美味しい」や、「満足」、を得るために食べています。


あまり好き嫌いが多いと、病気や不健康という快楽、快適な日々が送れないので、多少がまんしても、バランスのいい食事を心がけるようにしています。


目先の快楽や、快適さだけを求めて、好きなケーキだけを毎回の食事代わりにしている人は、やがて不快になります。


また、人は我慢をすることでケーキを食べる快感が、数倍になることを知っているので、より多くの快楽を得るために我慢をします。


人間は、わざわざ多少の苦痛や苦労をしてでも、あるいは我慢をしてでも、快楽を、快感を、いい気持ちやいい気分を、つまりは幸せを求めている生き物なのです。



しかし中には、そういった「幸せ感」を感じることが、とてもヘタな人がいたり、中には罪悪感を覚える人がいたりします。


それはきっと、過去にそれが不快であると学習したからだと思うのですよ。


例えば、『不登校・ひきこもり・ニート』の人の中には、食事をおいしくいただけないとか、食べ方がいびつな人が結構いたりするんですが、それは、おいしく食事をいただくということを教わらなかったからか、食事にいい思い出があまりない場合があったりします。


楽しくて美味しいはずの食事のときに、いつも親が小言や争いごとの場となっていたら、子どもは食事を楽しめません。


中には「しつけ」や「マナー」「作法」の名目で、子どもの手を箸で叩いたり、フォークで刺したりする親がいたりします。


しつけとは「躾」つまり、美しい身と書くように、優美な動きを身につけるためのトレーニングのことですが、食事中に子どもに怒鳴ったり叩いたりする行為が優美であるはずがありません。


まして、箸やフォークという食べ物を口に運ぶ食器で、子どもを叩いたり刺したりするというのは問題外。


そういったことをする人自身が「作法」や「マナー」が、食を美味しく、楽しくするために生まれたものであるという大原則について無知であり「マナー違反」であるということを知らないということです。

(かつて、一流ホテルやレストランで働く人向けのマナー教本を執筆したことがある、巨椋がいうんですから、間違いなしですぞ。ただし書いたパートは、各国料理の歴史担当でしたが。(笑))


不登校・ひきこもり・ニート』系の人には、お風呂が嫌い、苦手、あるいは数日入らなくても気にならないという人も、結構いたりするのですが、それは子どもの頃に、熱いお湯に入れられてしまったり、シャンプーが目に入って何度もつらい思いをして、体を清潔にする快感より不快感の方が強く、お風呂が嫌だということを学習したからかも知れません。


恋愛ができないというのも、恋をする幸福感よりも、異性から笑われるのではないかなどといった恐怖感が強いからかも知れません。


学校に行けない。


働くのが怖い。


人間関係が苦手というのも、そこから生まれる幸福感よりも恐怖感や不幸感が強いからかも知れません。



彼らにとって、おそらく学校や職場に行くよりも、部屋に閉じこもっているほうが幸福なのであり、少なくとも「いま以上に不幸にはならない」と思っているのかも知れません。


ぼくは、人は幸せになるために生まれてきた。


人は幸せを求めて生きている。


と、思っています。


人のすべての行動は幸せになるためにあると思っています。


幸せや不幸の感じ方は、人それぞれだと思います。


どうか、幸せ感じ上手になってください。





不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ)