エロスとバイオレンス
どうもこんにちわ。
エロスとバイオレンスの作家、巨椋修(おぐらおさむ)です。
え?
『不登校・ひきこもり・ニートを考える』ブログにこの話題はふさわしくない?
いえいえ、とんでもありません。
これは人間の本能に関係したことで、極めて重要です。
エロスとバイオレンス、性と暴力というのは、一般に“下品”と言われて、軽く見られがちなんだけど、人間の根幹をなしている面も確実にあるんです。
性というのは、人間が繁殖していく上で絶対的に必要なことで、もしかしたら人間の、あるいは生物の行動は、そのためにプログラムされているのではないかと、考えられているくらいなものです。
また暴力もしかりで、歴史年表を見れば人間の歴史が、暴力(戦争)の歴史であることがよくわかります。
それだけに人間は、この性と暴力を、うまくコントロールをして行かないといけない。
人間のコミュニケーションの方法として、この性と暴力をいかにコントロールをするかというのが、非常に重要になってきます。
コミュニケーションを良好にする方法として、“笑い”というのは重要なんですけど、一番てっとりばやく笑いを取るのは、いわゆる
お下品な笑い
つまり、性と暴力のネタ。
もっとわかりやすくいえば、シモネタと、どつき漫才、ドタバタ喜劇。
コメディには、たいていシモネタと破壊が入ってる。
これは古今東西、日本であろうが欧米であろうが、アラスカのイヌイットであろうが、アフリカの部族であろうが共通していることなんです。
お下品な笑いがダメなんてことは、ありません。
ただ、安易に笑いがとれるだけに、うまく使いこなすのが難しい。
また、これは男性も女性にも共通していることで、エロスとバイオレンスは、男性特有なんていうことはない。
むしろタガが外れてしまえば、女性のほうが凄いというのは、女性自身からよく聞く話しです。
また閉塞感のある鬱屈した状況だと、“いじめ”という暴力が発生しやすいとも聞きます。
“いじめ”に性的な要素が加われば、“極めて陰湿”とされるものになります。
エロスとバイオレンスというのは、共通しているところがたくさんあって、一種の快感を覚えるというのも、そうなんです。
どうも、脳の共通の部分が興奮するらしい。
それだけに倫理とか道徳とかで、エロスとバイオレンスにストッパーをかけているんでしょうね。
人間を含め、霊長類という猿には、“いじめ”がない種類がひとつだけあって、ボノボ(ピグミーチンパンジー)っていうんですけど、これが非常におもしろいんです。
何か、ケンカになりそうなときや、恐怖に襲われて興奮したときなんかに、彼らはSEXをする。
雄同士なら、ペニス同士でチャンバラをするみたいにしたり、雌同士なら性器をお互いにこすり合わせたりして、興奮をおさめるんです。
そのためボノボ社会には、暴力沙汰がないと言われているそうで、なんとも平和的な猿なんだそうです。
もとい、別に暴力事件になりそうだったら、SEXや同性愛に走れなんていうつもりありません。
でも人に迷惑をかけなければ、走っても全然かまわない。
なんでこんなことを書いているかというと、『不登校・ひきこもり・ニート』に限らず、コミュニケーションが苦手な人に、性や暴力に一種の“歪み”といいますか、“こだわり”をもった人を見かけたりするんですよ。あるいは、極端な嫌悪感。
おっと、それがいけないなんていうつもりは、ありません。
ただ、そういった人の中には、子どもの頃に、性的虐待や、性的いじめを受けた人。
あるいは、大変厳格な家庭に育ったような人もいるみたいですね。
イギリス人のサイモン・アンドレアエ氏が書いた『男はなぜ新しい女が好きか』という本によると、
「レイプや獣姦、あるいは死姦など極端な行動に走る倒錯者たちを調査してみると、その半数以上が性に関する話題を厳しく禁じられた家庭に育っている」
という文章が出てきます。
エロスとバイオレンスは、コントロールしないといけないなんて書きましたけど、それは、ただ嫌悪する、否定するということじゃないんです。
嫌悪しても、否定しても、あるいは極度に肯定しても、人間が生き物である限りついてまわります。
それならうまく付き合っていかないとね。
エロスとバイオレンスを描くっていうのは、とても難しいんです。
ただドタバタやっても、嫌悪感だけが残りがちなんです。
シモネタが上手に言える人って、人間関係の達人だと思いますよ。
その場の状況を考えたり、嫌悪感を持っている人には言わないというのも、マナーですね。
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)