「生まれてきてごめんなさい」を肯定せよ
キリスト教には『原罪』、つまり「人はもともと罪びとである」という考え方があります。仏教では『業』の思想(この場合はついついやってしまう悪いこと)があります。
これらの考え方ですと、私たちは生まれてきただけで罪があり、悪いとわかっているのについついやってしまう生き物であるというのです。
私はこれらの考え方を前向きに肯定したい。
私たちは生まれてきただけで罪があり、悪いとわかっていてもついついやってしまう生き物です。
つまりは「生まれてきてごめんなさい」は、人間なんてもともと不完全なんですから当たり前。
「悪いとわかっているのについついやってしまう業のある生き物」なんだから、つい悪いことをやっちゃうこともある。
昭和30年代に流行った歌にハナ肇とクレージーキャッツの『スーダラ節』という歌があります。
チョイト一杯の つもりで飲んで
いつの間にやら ハシゴ酒
気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体(からだ)に いいわきゃないよ
分かっちゃいるけど やめられねぇ
ア ホレ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイーラ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイスイ スーダララッタ
スーダララッタ スイスイ
ねらった大穴 見事にはずれ
頭かっときて 最終レース
気がつきゃ ボーナスァ
すっからかんのカラカラ
馬で金もうけ した奴ぁないよ
分かっちゃいるけど やめられねぇ・・・
これを歌った植木等さんは実は超マジメ人間で、お父さんは浄土真宗のお坊さん。こんなふざけた歌を歌っていたら父親に激怒されるのではないかと思っていたところ、歌を聴いたお父さんは「スーダラ節は親鸞の教えにあっている。"わかっちゃいるけどやめられない"とは人間の真の姿だ」と喜んだといいます。
また、ウルフルズの『ええねん』もいい歌です。
何も言わんでも ええねん
何もせんでも ええねん
笑い飛ばせば ええねん
好きにするのが ええねん
感じるだけで ええねん
気持ちよければ ええねん
それでええねん それでええねん
後悔しても ええねん
また始めたら ええねん
失敗しても ええねん
もう一回やったら ええねん
前を向いたら ええねん
胸をはったら ええねん
それでええねん それでええねん・・・
『スーダラ節』も『ええねん』も、自分の失敗を全肯定する歌ですねえ。
年末に天才落語家立川談志師匠の弟子で、立川談春さんの書いたエッセイ『赤めだか』がドラマになっていました。
談志師匠はビートたけしさん、弟子の談春さんは二宮和也さんが演じていました。
その中で、談志師匠を演じるたけしさんががこんなセリフを言います。
落語というのは古典芸能の中でもちょっと異種なんですよ。分かりやすくいえば「忠臣蔵」、「忠臣蔵」ってのはですね四十七士の討ち入りですよ。
主君の浅野内匠頭のあだを討つとね。だから四十七士だけど実際赤穂のお城には何人人がいたとかいうと三百人いるんですよね。
そのうちの四十七士四十七人。あとの二百五十何人はどこ行ったかっつったら逃げちゃったんだよみんな。なぜ逃げたか?
そんなことできるわけねえ。大それたことができるわけねえと思って、で落語はどっちかっていうと、四十七士の討ち入りした方ではなくて逃げちゃったやつそっちにスポットっていうか焦点を合わせる。これが落語なんです。
そして立川談志師匠はこんな名言を残しています。
落語は、「人間の業の肯定」
落語には、あまり英雄は出てきません。主人公はどっちかっていうと落ちこぼれの熊さんはっつあん。
落語は、生きぞこないや落ちこぼれにスポットを当て、それを全肯定する芸術です。
人は不完全なんだから「生きていてごめんなさい」と思うのは当たり前。
私はむしろ「生きていてごめんなさい」って一度も思ったことがない人に魅力を感じません。
だからいいんです。「生きていてごめんなさい」で。
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)
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巨椋修(おぐらおさむ)は陽明門護身拳法という護身術&総合格闘技の師範をやっています。
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