悪者を作る生き方
「自分がダメなのは、○○のせいだ」と、いって自分の被害者にする人がいる。
別にそれが真実であるかどうかは、よほど深い知り合いでもない限りわからない。
しかし、自分が被害者で他に加害者がいるとすれば、自分がダメなのはその加害者のせいであり、自分が責任を負うことはなくなる。
そこで中には、加害者探しや犯人探しを行い、それと思われる何者かを「悪者」として責める。
さらに、自分が被害者で、自分に責任がないということは、自分が一種の「弱者」であるということでもある。
現代社会では「弱者は保護され守られるべきだ」という考えがあるため、弱者は普通人に強く保護を要求する社会でもある。
「我々は弱者である。守られて当然である。よってもっと金を出せ!」という要求である。
しかし、普通人も強者も、そのようにズケズケと要求されると、ちょっと不快になる。
特にちょっと弱っている人は不快になる。
例えば生活保護者に「働かないで金をもらっているくせに、その金で酒を飲んだり、パチンコに行くとは何事か!」という風になる。
しかし、与えられたお金なりをどう使うかは、個人の自由であり、他者が個人のお金の使い道まで口出しをする権利などないのである。
さらに、弱者は「加害者」や「悪者」に依存する。
「悪者」がいないと、責任は自分に来てしまうかも知れないからだ。
「加害者」「悪者」「敵」は、政府でも大企業でもいい。文部科学省や学校でもいい。親の育て方でもいい。
「酒」でも「覚せい剤」でも「医者」でも「パチンコ屋」でも何でもいいのだ。
それらを「加害者」「悪者」「敵」としているうちは、自分を責めなくてもい済むし、責められなくても済むかも知れない。
だから学校や職場におけるいじめも「いじめっ子が悪い」と、悪者にしてみんなでいじめるのも、ある意味同じような意味がある。
弱者には「加害者」「悪者」「敵」が必要なのだろう。
この手法は、政治家や市民団体が、共通の「敵」を作りみんなで叩くときなどにも使われる。
もちろん、叩かれる方が本当に「加害者」で「悪者」であることも多いのだが、時としてテクニックとして、「悪者」や「敵」を作り叩く場合もある。
もし、他者を「加害者」「悪者」「敵」に仕立て上げることによって、自分を助けている人がいるとすれば、そんなものが大して気にならなくなったときが、少し生きるのが楽になったときなのかも知れない。
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)