幕末の教育
司馬遼太郎さんの、『この国のかたち』という本に、幕末と明治に活躍した大隈重信(おおくましげのぶ)の言葉が書いてありました。
「一藩の人物をことごとく同一の模型に入れ、為に惆儻不羈(てきとうふてき)の気象を亡失せしめたり」
(一藩の人物をことごとく同一の型にはめ込んで、そのため信念と独立心に富み、常識破りの素質を失わせている)
「佐賀藩の学制は、あまたの俊秀を駆りて凡庸たらしめし結果なしとせんや」
(佐賀藩の教育は、数多く入る才能ある人物を集め、ただの人にするという結果になっている)
―大隈重信『大隈候昔日譚』より―
大隈重信というのは明治維新で活躍し、政治家として外務大臣を務め、後にテロリストに襲われ右足を切断しながらもさらに活躍。
教育者としては、早稲田大学を創設した人として有名です。
大隈は、佐賀鍋島藩の出身。
司馬遼太郎さんによると、江戸時代の佐賀藩は、一種の教育藩で5・6歳くらいから勉強漬けにし、25・6歳で卒業というもので、その勉強とは独創を許さず、「一藩の人物をことごとく同一の模型に入れ」るような教育であったようです。
「一藩の人物を悉く同一の模型に入れ」
「あまたの俊秀を駆りて凡庸たらしめし結果なしとせんや」
という教育法は、現在日本の教育制度と似ていると思いませんか?
佐賀藩では、さらに勉強ができない武士は役人になれず、なれなければ家禄の十分の八を削られたといいます。
大隈重信は、その佐賀の教育法に反発し、後に自由な校風である早稲田大学を創設したのではないかと司馬さんは書いています。
一方、江戸幕府、いわゆる徳川本家では、御家人・旗本の公立学校はなかったと言います。
幕末の教養人、勝海舟の父親である勝小吉は御家人でしたが、放蕩人でほとんど学がなく、母親は文盲であったといいます。
「長州や薩摩のイモにやられたはずだ」
となげいたそうな。
もっとも、幕臣の子弟は公立学校ではなく私塾に通い、江戸には全国から優秀な学者が私塾を開いていましたから、当然、幕臣の子弟に優秀な人物が育っていました。
ただ250年続いた幕府体制というのが形骸化してしまっており、優秀な人材を取り上げるシステムじゃなかったということでしょう。
幕末の教育者といえば、長州(山口県)の吉田松陰を取り上げねばなりません。
この人は、30歳で死罪になり亡くなりますが、亡くなる三年前に私塾を作り、そのわずか三年間で幕府を倒す人材を多く育てました。
一説によると、幕末の志士たちに教えた期間はもっと短くて、1年4ヶ月程度とも言われています。
その教育法は、前述した佐賀藩と違い、本人の個性を伸ばすというものでした。
生徒からは、後にこれまでの常識にはない農民・町人で編成した『奇兵隊』を作る高杉晋作。
初代総理大臣になる伊藤博文などがいます。
と……、まじめぶって書いてみました。(笑)
佐賀藩は幕末期、先進的な藩だったんですよ。
でも、その教育法のせいかあまり目立った人材は出ませんでしたね。
タレントのはなわさんが、『佐賀県の歌』でからかっていますけど、その県民性は佐賀藩時代の教育が原因かも知れません。
吉田松陰は、わたしも尊敬する人物なんですが、松陰が育てた人材というのは、いまでいうところの、『過激派テロリスト』なんです。
松蔭自身が、同時違法であったアメリカ船に乗り込み密航を企てたり、要人暗殺を考えたりしたことで、死刑になっています。
そして松蔭の弟子の多くが、幕末期に戦死しているくらいです。
さてさて、どちらの教育法がいいものやら……
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)