子どもを見守るとはどういうことか?
不登校やひきこもりについて調べ出したとき、よく聞いたのが
「子どもを信じて待つ」
「子どもを信じて見守る」
という言葉です。
この言葉の裏側には
「子どもを信じて待っていれば、見守っていれば、子どもはやがて自分から動き出し、学校にいったり働きに出たりするようになる」
という心理があります。
実際、それまでヒステリックに「学校にいきなさい!」と、子どもを責めていた親御さんが、「子どもを責めるのはやめて、子どもを信じて待とう」「このまま子どもを見守ろう」と、態度を改めたところ、子どもが学校に行きだしたり、行動をしだしたりすることは、多くあります。
ですから、「子どもを信じて待つ」ことや「子どもを見守る」ということは、決して間違っていません。むしろ、とても正しく良いことです。
しかし、中には
「子どもを信じて待つ」「見守る」
を
「ただ待っているだけ」
「ただ見ているだけ」
という場合も、少なからずあるのが実際です。
「子どもを信じて待っていたら、子ども不登校からひきこもりやニートになって、いまでは30歳半ばになってしまいました。いつまで、子ども信じて待っていればいいのでしょうか?」
そんなことを聞かれることもあります。
信じて待つとは、見守るということでありましょう。
見守るとは、ただ見ているだけではありません。
これを、沸騰したお鍋に例えばみればわかりやすいと思います。
お鍋が煮えるのを待つというのは、見守るというのと同じです。
お鍋を見守るというのは、吹きこぼれたときに何もしないということでは、ありません。
80年代、90年代に不登校だった人たちは、いま30〜40代になっています。
すべてではありませんが、中には不況のせいもあってか、正直いって、あまりいい結果になっていない人も多くいるのです。
過去の調査では、不登校経験者の過半数が、中卒か高校中退をしており、4人に1人がニート状態といわれています。
「80年代、90年代に、不登校の親が【子どもを信じて待つ】ということを実行した結果、不登校の子どもの中から、ひきこもりやニートが、多く出てきたのではないか?」
という仮説がありますが、わたし個人の意見は、
●マクロ(全体)的には、イエス。
●ミクロ(個人個人)を見てみると、必ずしもそうではない
ということになります。
これは、一流大学卒業者の生涯年収は高い。
しかし、個人個人を見ると、そうとは限らない
というのと同じです。
お鍋が噴きあがったときに、何らかの手を出すと、吹きこぼれることはありませんが、ただ見ているだけだと、悲惨な結果になるがごとく、不登校のときに、うまく手助けをしてあげると、将来、ひきこもりやニートといったことにならずにすむ可能性が高くなるということです。
ひきこもりが長期化した場合、その人ひとりだけでの復帰は、かなり難しいといわれています。
不登校やひきこもりになって、親が「だまって見守っていよう」と、何もしないでいると、逆に子ども「親に見捨てられた」と、逆効果になる場合もあるのです。
では、どうすればいいのか?
学校に行けない間やひきこもっているときは、子どもの休養期間と理解すると同時に、決して関りを断たないことです。
どんな子どもでもサポートが必要ですし、場合によっては医療の手助けが必要なこともあります。
決して放っておけばいつか……
とは思わず、かといって言いなりになったり、過度な押し付けをせずに、助けてあげてほしいと思います。
見守るとは、ピンチのときに助けてあげるということですから。