不登校・ひきこもりは善か悪か



不登校・ひきこもり・ニート』は善か悪かと問われれば、答えはカンタンです。



不登校もひきこもり、ニートも、善でもなく、悪でもない」



というこの一点に集約します。


不登校・ひきこもり・ニート』は、善悪でもなく病気でもなく、ただの“状態”を指した言葉です。



「問題は問題だと思ったとき初めて問題になる」というのと同様。

これは“意識”の問題といえます。


そしてもし、問題があるのだとすれば、子どもがが学校に行かない・働かないという表面ではなく、その裏側にある問題。


本人や親の資質、学校や社会での不幸な過去、虐待、家庭内暴力、親子の思いや夢、理想の違い、過度の期待、世間体などなど……




不登校・ひきこもり・ニート』の表面自体は、大した問題ではありません。



本人が難病に罹っていて、学校に行けない働けないというのではないのです。


不治の病に罹っているというわけでもない。


難病に罹っていようと、不治の病であろうと「ダメ」」なんてこともない。




自分たちを縛っているワクをはずしてしまえば、何でもないことです。




必要以上の希望や期待を持つと、心が苦しくなり焦ってきたり腹も立ちます。


「自分は」「この子は」、こういう人なんだと、いい意味での“あきらめ”も必要でしょう。


また、最悪の事態を考え、覚悟を決めておくことです。

おそらく、ほとんどの人はまだ“最悪の事態”ではないでしょう。

ギリギリ最悪の事態になっても、何とか生き残れるくらいの覚悟があれば、現状を余裕を持って見れるはずです。


不登校・ひきこもり・ニート』は、善でも悪でもありません。

人が生きている中での一部分でしかありません。




『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)