ひきこもりやニートが日常化すると……
『不登校・ひきこもり・ニート』はつらい場合が多いのですが、しかし長くそれが続き、日常化してくると、逆にそれが【当たり前】になってきます。
そうなると、その状態が固まってしまい【不登校・ひきこもり・ニートのままでいる方が楽】と思えるようになる場合もありますね。
『不登校・ひきこもり・ニートは楽』っていうのは、本人だけではなく、その親御さんがそうである場合も少なくないと思うんですよ。
そんなバカなと思うでしょ。
わたしは多くの『不登校・ひきこもり・ニート』の親御さんからお話しをうかがいましたが、どうしてもそうとしか思えない人が、少なからずいたんです。
その中には、すでにお子さんが、不登校でも、ひきこもりでも、ニートでもなく、すでに自立して結婚までしているような親御さんもいました。
親御さんは、わたしに言うんですよ。
「わたしの子どもは不登校で、それで悩んでいるんです」
「でも、もうお子さんは独立して会社勤めをしているんでしょう? イヤミを言われたり、家庭内暴力でもあるんですか?」
「いいえ、子どもは、本当に良くしてくれます。でも、あの子は不登校でして、わたし悩んでいるんです」
こういうお話しをえんえんとされる。
あるいは、お子さんは現役の不登校、あるいはひきこもりなんですが、ずっとお話しを聞いていると、お子さんが不登校やひきこもりから、学校に行ったり、働いてもらっては困ると思っているとしか理解しようがないと思えたりすることがあるんですよ。
これは一種の『共依存』なのかも知れません。
それと、悩むことが“生活”になっているため、“悩みが解決されることを恐れる”ようになっているのかも知れません。
人間という生き物は、いつも『未来とは、永遠なる今日のくり返し』だと思っているフシがあるんですよ。
つまり、「あしたは今日のような1日」だと思っており、それが延々と続くと、何となく思っている。
変わらない毎日というのは、楽なんです。
安心でもある。
もっと残酷な言い方をすれば、
「もし子どもが、不登校でなくなったら、次の悩みが待っている」
ということです。
不登校でなくなれば、成績、進学、進路、結婚と、次々と新しい悩みが襲ってくるかも知れませんが、子どもが不登校やひきこもりである限り、永遠に今ある悩みで、おさまっていられる。
人間、新しい動きや、何かを始めようというときは、もの凄いエネルギーが必要となります。
それよりも、『永遠の今日』の方が楽なんですね。
ほとんどの人って、何か都合の悪い事が起きるとわかっていても
「このままじゃいけないって、わかっているんだけど……」
って、動こうとしないじゃないですか。
それと同じなんです。
現在の苦しみか、未知の苦しみかというと、経験のあるいまの苦しみを選択してしまうのでしょうね。
そしてずっと、そこにうずくまっている。「苦しいよお、苦しいよお」と、泣き、嘆きながらも、その場に安住してしまう。
一度身に付いてしまった習慣や癖って、なかなか直らない。
人間は、習慣や癖に支配されているといってもいい。
いま動かないといけないのだけれど、未知なるものに向かっていくのは怖いし、面倒くさい。
10年くらい前にアダルト・チルドレンという言葉が流行って、ちょっと問題とされた子どもや若者は、みんなアダルト・チルドレンと言われたものです。
その次流行ったのは、境界型人格(パーソナリティ)障害。
学校に行かない子どもは、『登校拒否』、『不登校』と仕分けされる。
これらは流行語みたいなもんです。
近年では、ニートが流行語。
関係者の友人の話しでは、ひきこもりの支援所は最近減ってきて、ニート支援をうたっている場所が増えているそうな。
流行っていうのは、『みんなやってる』ってことでもあるんですよ。
みんなやっていたら、自分もその他大勢のひとりでいられるから、安心できるんです。
「あたしの子ども不登校なのよ」
「あら大変ねえ」
で、落ち着くところもある。
「あ、そう」
みたいになってくる。
ニートが流行語じゃなかったときは、『浪人』や、『失業中』でも良かったんですけどね。(笑)
『ひきこもり』であるところの、「不幸なオレ」で納得してたり
『不登校・ひきこもり・ニート』の親であるところの、「不幸なアタシ」で納得して、問題解決が面倒になってしまうことだってあると思うんです。
『不登校・ひきこもり・ニート』の当人でも、親御さんでも、それが習慣や、癖になっちゃったら、『永遠なる今日』の方が楽ですから。
何人かのお母さんが言ってました。
「子どもが不登校やひきこもりじゃなくなったら、『親の会』でのわたしの居場所がなくなる」
まあ、それもひとつの生き方なんでしょうでしょうけどねえ……
なんか間違っているような気がしますよねえ……
『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)