ニートへの偏見について
「なぜ働かないといけないの?」
とい問いがあるとすれば、その答えはいくつか挙げられます。
「食べていくため」
というのは、ほとんどの人が思っていることでしょう。
しかしこの答えでは、ニートに対する答えにはなっていません。
なぜか?
ニートは「働かないで実際に食べている人」であるからです。
ニートという言葉が、日本に輸入されて一気に、日本語化するくらいに広まったわけですが、この言葉には 偏見と蔑視 が入ってます。
嫉妬とねたみ も入っているかも知れない。(笑)
なぜか?
日本は、日本型社会主義的民主主義国家だからです。(笑)
良きにつけ悪しきにつけ、欧米ほど個人主義が浸透しておりませんし、いまだに『1億総中流』を求めているところがあります。
『1億総中流』というのは、ある意味『みんな一緒』の意識でもあります。
古来、日本は農村を中心にしたムラ社会ですから、ムラビトが一致団結、協同して労働をしておりました。
ムラビトの誰かが、労働もしないで収穫物を食べるというのは、蔑視や排斥に対象になります。
殿様や武士でも、たまに農作業を手伝ったりすると、「あの人はエライ!」となる。
いまでも社長や会長が、従業員と一緒に肉体労働に参加すれば、「あの人はエライ!」となるがごとく。
では民主主義とは何かというと、日本は明治維新に欧米から輸入した体制で、それまでムラ単位であった集団が、国家のもとに集結することになった。
民主主義は古代ギリシャからある思想ですが、それが体現したのは、アメリカの独立戦争やフランス革命の頃からです。
それまで「君主や王様の国・軍隊」が、「市民や国民の国・軍隊」になったわけです。
国民が主権者というわけですね。
ヨーロッパでは、それまで「戦争は主に貴族の義務」であって、農民や商人にはあまり関係なかったんです。
戦争になったら、ちょっと出稼ぎ感覚で参加するくらいでした。これは日本も一緒ですね。
それが、国民が主権者になることによって戦争に行くことも「市民や国民の義務」になった。
国の主権を市民や国民全員が、革命によって主権者になり、同時に兵役の義務を負ったわけです。
日本では、明治になってから民主主義が取り入れられ、民衆は「お国のために」兵役につくようになった。
明治以後に取り入れられた『学校教育』も、「お国のため」の教育でありました。
太平洋戦争後は、兵役はなくなりますけど、「お国のため」は「会社のため」になり、ムラ社会的な「みんな一緒」の思想は残りました。
学校では「お国のため」ということは言わなくなりましたけど、「みんな一緒」の思想は根強くいまも残っています。
現代、国家がなぜ学校教育に力を入れるかというと、子どもや若者に教育を与え、その子がやがて、大人になったとき、大いに働き、国家に利益を還元させるためです。
だから国家が与えた「学校教育」を拒否するのは、「非国民的行為」に映り
大人になっても働かずにいる人は、社会に何も還元していない「非国民的行為」に映るわけです。
でもね。
彼らは、「非国民的行為」をしているわけでもないのですよ。
なぜか?
彼らは働かない。働かないゆえに、納税額は少ない。
(納税をしていないわけではない。生きている限り何らかの消費をしており、それには税金がかかっている)
それだけのことです。
何も犯罪者であるわけではない。
ではなぜ『不登校・ひきこもり・ニート』は、かくも攻撃されるのか?
日本型の「ムラ社会」、「みんな一緒でなければならない」という思想があるからです。
これが、日本型社会的民主主義。
あるいは日本型全体主義といってもいい。
もう少し、個人個人の生き方を尊重するということになれば、ニートということはさほどの問題にならなくなります。
ニート・ひきこもりから被害を受けるとしたら、彼らを養う親や家族程度。
しかし、それが犯罪的行為でなければ「しょうがないな」という程度でしょう。徴兵制もないしね。
個人主義が発達していれば、それに対する介入はいまよりもっと少ないはずです。
しかし、日本ではそうはならないでしょうね。
良きにつけ悪しきにつけ、それが日本人の国民性であるからです。
よって、世界でもめずらしい『不登校・ひきこもり・ニート』が特別に偏見と蔑視、攻撃の対象になっているわけです。
『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)