半分は他人のため、半分は自分のため
「社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求する方が、はるかに有効に社会の利益を増進する」
「社会のためにやるのだと称して商売をしている連中が、社会の福祉を真に増進したというような話しは、いまだかつて聞いたことがない」
―アダム・スミス(1723〜1790)イギリスの経済学者―
『不登校・ひきこもり・ニート』に関わっている人間には、痛い言葉です。
しかしアダム・スミスの言葉が正しいとすれば
「社会のため、社会のためというのなら、もっと自分の所得を増やせ! もし日本の平均年収がいまの倍に増えるのなら、その方が福祉や教育にも、倍に増えた税収を与えることができるから、キレイ事をいっている間に、自分の利益を上げた方がいいのだ!」
ということになります。
そしてそれはあながち間違っているとは言えません。
自分に余裕がないと、人の面倒など見られませんから。
アダム・スミスは、経済学の父と呼ばれている人で、ちょっときびしい言い方をしていますが、彼自身は自分の収入のほとんどを慈善事業や福祉に使った人です。
アダム・スミスの有名な言葉に、 「神の見えざる手」 というのがありましてね。
自分の利益を自由に求めた方が、「見えざる手」が働き、市場経済は適切化していくと考えたようなんです。
アダム・スミスの影響を受けた思想家にカール・マルクスがいます。
マルクスは「経済が世界を動かす」と考え『富を分配し、人は平等であるべきだ』という 理想的 な思想を考えました。
マルクス自身は、大富豪の家に生まれますが、アダム・スミスとは逆に親の莫大な遺産を、労働者に分け与えることもせず、ひたすら遊びなどで贅沢な使い方をして浪費し
「わたしは、プロレタリアート(労働者)のような暮らしはできない」
と、親友のエンゲル(エンゲル係数で有名な経済学者)から借金をしては、浪費するという生活をした人です。
そして最後には、貧困と失意のうちに亡くなりました。
そのマルクスの思想を「理想」と考え実践しようとした人たちが【革命】を起こし、多くの国家を作りましたが、残念なことにそのすべての国は、
平等ではなく特権階級と労働者
独裁者と貧困
という、マルクス主義(社会主義・共産主義)が理想としたユートピアは実現せず、まったく逆の結果になっています。
実際、ホモ・サピエンスという生き物の歴史は、口先だけの理想を追求するよりも、競争社会や利己主義であった方が豊かな世界を作り出してしまうという皮肉な結果になっています。
どうも人間は、理想を振りかざすと逆に結果を出すようですね。(笑)
まるで、教育熱心な親が、子どもに理想を押し付けすぎて、まったく逆の結果を招いてしまう事に似ているかも知れません。
異民族があまりいなかった、しかも圧倒的多数が農耕民族である日本人には、元々、社会主義的な体質があります。
日本の農業は狭い土地で、いつも隣の農家を見ながら、共同で農業をやっていました。
隣りが種を撒いたから、オラの畑も種撒くかみたいなね。
これが全体主義的な風土になった。
『不登校・ひきこもり・ニート』というのは、経済的に豊かな国ゆえに起こりうる問題です。
特に日本のように、いっせいに右にならえ、みんなと一緒という、全体主義的社会主義みたいな国民性がある国では、こういった問題が起こりやすい土壌があるのかも知れません。
おまけに日本人は、『不登校・ひきこもり・ニート』と関係が深い、「対人恐怖症」が異常に多いと言われています。
この「対人恐怖症」は、欧米や中国では、少ないと言われている症状らしいんです。
たぶんこの病気も、いっせいに右にならえ、みんなと一緒じゃないとイヤ、人と少しでも違ったことをやるといけないとされる文化が産んだのかも知れません。
ここにも「神の見えざる手」が働いているのでしょうか?
どうも人間にとって、「人のため」と言うのもいいんですけど、同時に「自分のため」に働くことも大切なことなんでしょうね。
半分は他人のため、半分は自分のために働くということが大切。
そうやってこそ【共存共栄】【自他共栄】ができるというものなのでしょう。
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)