人間は理想的な生き物じゃない

一ヶ月ほど前、青森で女性監禁事件が起きました。

こういった事件は、ときどき起こります。

ある著名な犯罪学者が言いました。


「『監禁』や『飼育』というようなテーマの映画や、ゲームが蔓延しているため、犯人はそれが異常なことだとわかっていなかったのではないか?」


猟奇殺人がおこるたびに、評論家はいいます。


「最近の人は、周囲に『死』と直面することが少ないため、死生感がおかしくなっているのではないか? 昔は家庭内でも死があり、死ぬということがどういうことかわかっていた。

いまの、テレビゲームなどでは死んでもリセットできると思っていて、実際に殺しても生き返ると思っている」


そういったコメントを、結構聞くのですよ。


「この偉いセンセイ方は、本気でそんなことを言っているのかいな?」


と、思ってしまいます。

こういった事件はね。

昔からあったのですよ。

むしろ、昔の方が多かった。

凶悪犯罪は、年々減っているというのが、現実なのです。

性表現や残酷描写が、日本などより厳しく規制されているアメリカ・ヨーロッパ・中国の方が、猟奇殺人や女性の監禁事件は、はるかに多いのです。

凶悪犯罪も多い。

『死』が日本の何十倍、何百倍も多い、アフリカの諸国は、日本とはケタ違いの凶悪犯罪大陸と言っても過言じゃない。


確かに、そういったゲームや映画に触発されて事件を起こす者はいます。


しかし、たいていの人は、フィクションはフィクションと思っているし、ゲームはゲームであると知っている。

そういった偉い人も観る、テレビの時代劇などでは、必ず大量殺人が行われているといっていい。

正義の主人公が、悪者を十数人、バッタバッタと斬り殺し、つまり大量虐殺をした挙句の果てに、主人公は

「いやあ、いいことをした。あはっはっは」

とばかりに、青空に向かって大笑いをしながら、旅を続けるなんていうストーリーは当たり前にあります。

時代劇はもっとひどくて、悪代官あたりが、

「もう玄人は遊び飽きた、たまには生娘(処女)を手込め(レイプ)にしたいものよのう」

なんてなんて言ってるけど、時代劇ならリアリティがないから良いのかね?


ようするに、偉い先生とかは、自分が若かったときのことを忘れているのです。

そして、いまの若者がわからない。

もっと言えば、人間という生き物を誤解している。


人間は、そんな理想的な生き物じゃない。

世界中から、テレビゲームや映画やテレビ、大衆演劇を駆逐しても、凶悪犯罪が減るとは思えない。

減るとしたら、表側だけで、裏側ではもっとひどいことが多く起こることは、人類の歴史を見てみればわかることだと思います。

いい例が、中世ヨーロッパ。

キリスト教会の力で、いろいろな欲望は、圧迫・抑圧された。

その結果、たまった不満は、魔女狩りというカタチで出てきた。

魔女とはいえ、これは女性だけではなく、男も子どもも老人も、「ちょっとおかしい」とされた者は、魔女として、拷問され殺された。



“健全なる庶民”にとって、「魔女」が拷問され殺されるのは、最高のガス抜き、娯楽、ストレスの解消法であったのでしょう。


歴史を見てみると、こういったことはいたるところにあります。


現代日本にとって、『魔女』のように攻撃の対象にされているのが、『ひきこもり・ニート』であったりします。


凶悪犯罪や、女性監禁は、許されるものではありません。


ちなみに、戦争が起こったとき、真っ先に禁止されるのが表現の自由です。

そして抑圧されるのは女性である。

女性が元気で、性や残酷描写などの「表現がの自由」があるというのは、平和なときにの特徴と言ってもよいのですよ。


人間は、そんなに理想的でご立派な動物ではないのです。



不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)