人の評価は見方で変わる
人の世とはおもしろいもので、見方を変えれば
“悪党は正義の味方になり、正義の味方は極悪人にもなる”のです。
例えば、歴史的人物でいえば『山内一豊とその妻』なんかもそうでしてね。
山内一豊の妻は、“賢婦人・良妻の鏡”などとされ、戦前の教科書にも載っていたくらいなのです。
有名なハナシとしては、
一豊クンは、あまり目立ったシトではなかったの。
それがある日、市場でお馬を売っていた。
見たこともない名馬だったのよ。
ところが名馬だけにめっぽう高い。
とても山内一豊のサラリーで買えるシロモノじゃなかったの。
「でも欲しいなあ、この馬が手に入れば、大活躍しちゃうのになあ〜」
とヨメさんにこぼしたのよ。
そこで登場、賢夫人・良妻の鏡!
「アータがそんなに欲しがるなら、買いなさいよ」
と、ヘソクリ(親の遺産説アリ)をポーンとあげちゃった。
そのお金たるや、お屋敷が買えるくらいのものだった!
さすが教科書に載るくらいの賢夫人! 良妻の鏡!
噂が噂を呼び、信長公のお耳にも入り、信長公も
「あっぱれなり!」
と言ったとか言わないとか」
てなお話。
で……
これのどこが、賢夫人、良妻のカガミなのよ!?
当時の山内一豊は、いまで言えば、株式会社織田家の、末端の主任か係長クラス。
んでもって馬を現代の車に例えると、一豊の普段使っている車は、中古のカローラ。
それが、妻のヘソクリとか、妻の親の遺産でいきなりフェラーリとかポルシェを買ってもらったっていうお話なのよ。
その馬で山内一豊が、合戦で大活躍したっちゅーならハナシはわかるんです。
してないの……
全然してないのよ……
さて、この美談だって、見方によれば、ただのバカ夫婦のお話になっちゃうの。
(実はこのハナシは、実話かどうかも不明なの。まず作り話と考えた方がいいでありましょう)
さてさて、多くの小説や映画で山内一豊を描くときってほとんどが、実直でマジメで優しい人として描かれていると思うの。
では、史実の実際の山内一豊はどんな人物か?
彼は、織田信長のあと、豊臣秀吉につかえて、やがて5〜6万石の大名に出世するの。
これは素直にスゴイ出世だと思うよ。
よく一豊クンのことを、凡庸の武将だとかいうけれど、足軽から地道に出世していったんだから、彼はスゴイといえる。
ただ、彼は地道に地道に地道にコツコツと出世をしてきたのよ。
その秀吉が死に、やがて豊臣家VS徳川の天下分け目の“関が原の合戦”の直前に、一豊は徳川家康側につくのよ。
これは悪いことじゃないの。
戦国の世は、そういうもの。自分で自分の会社(主君)を選んで、さっさと転職(寝返り)するのが常識。
合戦の前に家康が会議を開いたのよ。
「こんどのイクサは、天下分け目の戦いになる。豊臣に恩がある武将も多いであろうから、その方々は、遠慮なく豊臣につくがよい」
と言ったの。
ほとんどの武将は、またどっちにつくか決めかねているときだったのね。
ほとんどは、どちらか強い方になびきたいわけさね。
こういうときは、場の空気が日本人を支配するの。
そのとき、福島正則っちゅう大大名が、「あいや、あたしは家康どのに従い申す!」と、言ったの。
ここぞとばかりに、一豊クンも、「あたしも、家康殿に従い申す! その証拠に、我が領地は、家康殿に差し上げ申す! 家族も家康殿に人質としてお渡し申す!」
と、大見得をきったのです。
大大名と小大名が大声で言ったモノだから、その場の『空気』が決まり、みんな家康につくことになったのだけどね。
ジミな一豊クンにしては、名だたる武将の前で大見得を切るというのは、一世一代の大芝居。
実は、この大芝居は仲良しの小大名が、直前に
「こう言う場合、大見得を切ったら、家康公の覚えもよく、うまくすればご加増まちがいなしだから、わしはそうするつもりなのだ」
という、アイディアを聞いていて、そのアイディアを仲良しの小大名が言う直前にパクッたのです。
悪いやっちゃなー一豊クン。
確かにかの大見得で、場の空気が変わって、関が原の戦いでは、豊臣は滅び、徳川家康は天下統一!
一豊クンは、関が原の戦いのときは、まったく戦功ゼロだったんだけど、この一言で、土佐24万石の大大名に抜擢されたの。
そこで土佐(いまの四国高知県)を支配するようになった一豊クンだけど、どうも人徳や政治能力がなかったらしく、領民や元々住んでいる武士団が、一豊クンになつかない。
そこで、一豊クンがとった手はというと……
土佐の主だった地元武士に、「相撲大会をやる。参加費無料、参加者には酒や食べ物も飲み放題食い放題」と、触れ回ってね。
土佐の武士というのは、相撲も酒も大好きだから、「新しい領主もいいところあるじゃん」と、ぞろぞろとやってきた。
相撲大会に参加だから、みんな試合前に稽古をする。
当然、ふんどし一丁でする。
約70名ほどの地元武士が集まったというんだね。
相撲大会の場所は、海岸の砂浜だったから、刀とかは横に置いて、裸になって稽古をしているときに、山内一豊がやったことは何か?
足軽鉄砲隊を、海岸の物影に隠しておき、ふんどし一丁の地元武士団にいっせい射撃をした。
海に泳いで逃げようとした地元武士は、船で追いかけて撃ち殺した。
戦国時代でもまれな大虐殺。
人間の大量屠殺をやった。
殺した地元武士は全員、死体から首を切って、さらし首にした。
そういった暴力で、山内一豊は土佐24万石を支配した。
相撲大会に参加しなかった武士たちは、その後、“郷士”と呼び徹底的に差別した。
その徹底的に差別された人々の子孫から、後に坂本竜馬とかを輩出した『土佐勤皇党(とさ・きんのうとう)』という倒幕組織が出てきて、徳川幕府瓦解、明治維新の礎(いしずえ)になった。
これが、いまいま美談として伝えられている山内一豊の史実。
人の評価もね。
見る人、伝える人、解釈する人によって、まったく逆になってしまうのね。
他人の評価によって、ひどく苦しんでいることが少なくないの。
でも、それは一面でね。
多面的に見れば、まったく別に評価している人もいると思うのだよ。
悪口を言う人もたくさんいるかもしれないけど、その分、逆の思いを持っている人が必ずいるものなの。
そしてね。
我々も、人の一面だけを見て、評価を下すということをなるべく少なくしたいものだね。