ありすぎる自由はしんどいのだ
自由っていうと、みんなスゴクいいものだと思っていますけど、自由って本当は、しんどいんですよ。
そもそも“自由”っていうのは、あらかじめあった何らかの規制や規則などからの解放を指します。
「大辞林 第二版」によりますと
じゆう 【自由】
(1)他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。
自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性などがその内容で、これに関して当の主体の能力・権利・責任などが問題となる。
(2)物事が自分の思うままになるさま。
(3)わがまま。気まま。
ということになります。
ここに出ている(2)、(3)に関していうと、世の中というのは、思うままにはやらせてくれない。
わがまま、気ままに生きて行くには、それを許容してくれる人か、あるいは飛びぬけた実力がないと、許してくれない。(笑)
また、自由にも、ある約束事がついて回ります。
それは、 責任。
規定や拘束、支配から逃れ、自由を獲得したとしても、その後は、自己責任で対処しないといけない。
例えば、親や会社に拘束され、支配されていた人が、自由を獲得したとする。
すると、その日から、自分で生きていかないといけなくなるんです。
自分で生きていけない場合は、他の制度や支配下に入るしかない。
また支配されていた場合、自分の頭をあまり使わなくていい。
なんでも、上の人がいうことを聞いていればいい。
よくさあ、会社からリストラされてどうしていいかわからない人っているじゃないですか。
そういう人って、ちょっと悲しい。
サラリーマンはリストラされたり、会社の倒産の可能性があるため、もしものことも頭の隅に置いておいたいいのです。
夫婦だって、3組にひと組は離婚ですから、リストラをする・されるということも考えておいたほうがいいのかも知れません。
リストラって合理化のことですから、生徒だって学校をリストラしてもいいんです。
いじめを受けたり、おかしな教育をされそうだったら、考えをリストラ(合理化)して、辞めるなり転校をした方がいい。
ただし、そういった場合、自由に転校や会社員なら、会社を変えてもいいんですけど、後の結果は、自分の責任となります。
だから、そういった場合、損得で考えた方がよろしい。
自分や家族にとって、もっとも利益(この場合の利益とは、お金のことだけじゃありません)のある方法を考えて行動するというのが、正解に近くなるでしょうね。
いまね、日本はかつてない豊かさで、いろいろな選択が自由に近くなっています。
昔だったら、百姓のせがれは百姓、武士の子は武士と決まっていたんです。
それが、かなり選べるようになってきた。
百姓の子どもは、必ずしも百姓になる必要はなく、なれるものなら商社マンでも公務員でも、芸人だろうがロックンローラーだろうが、なることができるんです。
自由に選択できる。
でも責任は自分にくる。
まるで、中華、フレンチ、和食にイタリアンと、どの料理を選べるがごとくです。
そうなると、選ぶものが多すぎて選べなくなっちゃう。
わたしなら、全部食べようとしますがね!(笑)
でも、全部食べようとしても消化不良を起す。
あるいは例えば、世界の美女を100人集めてどれか一人を選べと言うようなものです。
普通、目移りしてなかなか選べない。
わたしなら、全部選ぼうとしますがね!(笑)
そうなるとたいてい食傷気味になりますな。
いまの時代、選択肢が多すぎて選べないということもあります。
他の人が、「こんなもんでいいんじゃないの」なんて言っても
「オレはこんなもんじゃない」
なんて思っちゃう。
そういった意味でも自由ってしんどいんです。
だからといって、他人や社会の指図通りにやると自由がなくなる。
自由っていうのは、いいものなんですけど、完全な自由ってしんどいんです。
ある程度の拘束は規制があったり、誰かに方向や行動を決めてもらったほうが、人間は生きやすい。
規制や拘束がない社会なんてありません。
そういった意味で、人間に完全な自由なんてのはないともいえますね。