不登校は百人百様か
『不登校・ひきこもり』は、百人百様というのは、正しいんです。
しかし、それは相撲取りが百人百様というのと同じです。
パイロットも医者も弁護士も、サラリーマンも主婦も百人百様。
しかし、共通する傾向は明らかにある。
わたしは『不登校・ひきこもり』の人、その親御さんと数多く会って話しを聞いてきました。
『不登校・ひきこもり』の人には、共通する傾向があるように思えます。
親御さんも共通した傾向があるように思えます。
「それは何か」と聞かれたら、その表情、考え方、質問に対する答えなど非常に似通っているように感じます。
まるで教え込まれたかというほど、似ているんですな。
なぜかなと考えてみると、答えは彼らの問題意識が共通している。
つまり不登校なら学校に行かないことに悩んでいたりする。
悩んでいるから、答えを探す。
その答えは、精神科医、カウンセラー、同じ悩みを抱える人の言うことだったりする。
その答えはほぼ同じである。
よって、わたしのような取材者が質問をしたときに、似たような表情で似たような答えが返ってくる。
当たり前といえば当たり前の話しです。
それがダメとかいけないとか言うんじゃないです。
しかし取材者として巨椋修(おぐらおさむ)あが話しを聞いた印象ではそうなる。
『不登校・ひきこもり』の人は個性的であるという人もいますが、わたしが会った人の中で、個性的という人は少ないんです。
これも考えてみれば、元々
「子どもは学校に行かないといけない!」
「人は引きこもっていてはいけない!」
という 固定概念で悩んできた人たち だからだと思うんですよ。
つまりみんなと同じじゃないといけない。
みんな一緒じゃないけない。
という思考が人一倍強かった人なのかも知れませんね。
でも何らかの理由でみんなと同じじゃなくなった。
だから人一倍悩んだ。
そのため、『不登校・ひきこもりでもいいじゃないか』という思想・考え方を取り入れようとしたんじゃないと推測できます。
わたしの観る限りこの傾向は、当事者である子ども・若者より、その親御さんの方が強いのではないかという気がします。
ところが……
親御さんは、口ではそういいながらも心の奥底では、「いいじゃないか」とは信じてはいない場合が多いように観えるんです。
そう信じたいとは思っている。
子どもは、むしろそういった思いから卒業している場合も少なくないんです。
もちろん、ずっと悩んでいる人もいますけど、「学校にいけなかった」、「ひきこもりだった」という現実を受け入れて、前に向かっている人がほとんどだったりします。
むしろ親御さんの方が、受け入れられないで子ども働くようになっても悩んでいるように見受けられることがあるんです。
例えばね、いま現在、子どもさんが『不登校・ひきこもり・ニート』などで悩んでいるとしてでもですよ。
自分のせいで親が苦しんでいるというのを、子どもは見たくないと思うんですよ。
子どもの中にはね。
自分の親が、『不登校の親の会』に出かけるのが、自分の責任であるような気がして、すごく苦しんだなんていう人もいるんです。
『親の会』に行くのがいけないなんていう気はまったくありません。
むしろ多いに行くべきしょう。
ただ、親が苦しんでいるのを子どもは見たくないということです。
子どもが荒れたときは、「おまえのせいだ」なんて言うかもしれないけど、それは愛憎裏返ったようなもんでね。
やっぱり親が苦しんでいるのはつらいもんですよ。
できればまず親御さんに楽になって、人生をいまからでも楽しんでいただきたいですね。
例え子どもが成人していても、親の背中を見て子は育つもんです。
『不登校・ひきこもり』の親だって、楽しんでもいいじゃないですか。
どうのこうの言っても、人は百人百様なんです。
だから、出来うる限り楽な気持ちになってほしいと思いますね。