餓鬼(がき)と依存症



『餓鬼(がき)』という言葉をご存知でしょうか?

ここでいう『餓鬼』とは、いわゆるいたずらをする子ども『ガキ』のことではございません。仏教用語としての『餓鬼』でございます。


仏教における餓鬼とは

【生前の悪業の報いで、餓鬼道に落ちた亡者(もうじや)。体はやせ細り、のどは針のように細く、また、手にとった食物が火に変わってしまうため常に飢えに苦しんでいるとされる】

餓鬼道とは【飲食が自由にならず、飢えに苦しむ世界】

と、されています。

もしかしたら【食べても食べても、満足できず、いつも飢えに苦しんでいる】ような人も、餓鬼道に落ちてしまっている人といえるでしょう。



いまの時代、生きながら『餓鬼』になり『餓鬼道』に堕ちて苦しんでいる人たちがいます。


それは、依存症という病(やまい)に苦しんでいる人。


依存症の対象は、アルコール、薬物、食べ物、買い物、ギャンブル、仕事、SEXと、なんでも構わないといわれています。

最初は、何でもないことからはじまります。

一杯のアルコールが気持ちよかった……

やけ食いしたら、つらいことが忘れられた……

こんなことは誰にでもあることなのですが、そのうち一杯が二杯になり、夜だけだったのが、昼間にも朝にも……となってきます。

やがて、最初に感じていた気持ちの良さもなくなり、苦しく気分が悪くなっても、止められなり、やがて自分だけではなく周囲にも迷惑をかけるようになってきます。

これが『依存症』です。

『餓鬼』は食べようとしても食べられず、あるいは食べても食べても飢えの苦しみから逃れれられないそうです。


依存症の人は、何に飢えているのでしょうか?


何に飢えて鬼のようになっているのでしょうか?



それは【母の愛】です。



乳児は、100%母親に依存して生きています。


乳幼児のときに、母親を求め、それが十分に受け入れられていれば、「母はわたしを愛している」と、実感でき、また


「わたしは愛されて当然、人に受け入れられて当然」


と、情緒の安定した大人に育つことができます。



「わたしは愛されて当然、人に受け入れられて当然」と、育った人は、例え、誰か自分を受け入れてくれない人が表れても、それほど動揺することはありません。


本来、愛されて当然と思っており、自分を愛さない・愛せない人が表れても、「ま、そんな人もいるよね」で、済んでしまいます。


一方、母に受け入れられずに育った場合……、あるいは受け入れられていないと感じて育ってしまった場合、赤ちゃんや子どもは、生き残るために母に愛やおっぱいを「ねだって、ねだって」要求を続けなければならなくなります。


やがて、母親がそのことに気が付き、後から愛を与えたとしても、過去から学習していますから、この母親は、このおっぱいは、いつまたなくなるか不安でしかたなくなります。


そうなってから、母の愛を貰っても、あるいはふんだんにおっぱいを貰っても『餓鬼道』に堕ちた『餓鬼』のごとく、貰っても貰っても満足するということはできなくなります。


いくら貰っても、満足できませんから、やがてその心は、怒りにたぎるようになり、満足させてくれなかった親、特に母親に、暴力として向かうようになります。


母親に向かえない場合、その怒りは、結婚後の妻に暴力として爆発したり、場合よっては、リストカットなどの自傷行為で自分に向かったりすることもあります。


しかし『餓鬼道』に堕ちている状態ですから、何度怒りを爆発させても、それでおさまるということがありません。


依存症患者が、体に悪い、周囲に迷惑をかけていると知っていながら、やめることができないように、同じ過ちを繰り返してしまいます。


彼らは、「自分が母親に受け入れられなかった」と思っています。

さらに「そんな自分は、生きている価値なんかない」と、思っているわけで、つまりは自己否定感、自己評価が低いのです。


ですから、彼らが【餓鬼道】から救われるためには、自己肯定感を高め、自己評価を高める必要があります。

自己肯定感、自己評価の高めかたは、これまで何度も書いておりますが、後日、また改めて、いえ、何度も繰り返し繰り返し、述べ続けていきたいと思っております。




不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ)