善悪ってなんだ?
ときとして、あるいはしばしば、『不登校・ひきこもり・ニート』は悪として解釈される場合があります。
さらに、わたしたちは単純に、『善人・悪人』を分けて語りますが、その実態は実に微妙で“あいまい”なものなのですよ。
そもそも、善悪というのは、時代・背景・雰囲気・感情・情緒・観念・宗教によって、実にコロコロと様変わりするものなのです。
そして、世の中一般にいわれる、“善意”は結果として、“良い”とは限らないし、“悪意”が、“良い”とされる結果を生むことすら、まれではないのですな。
例えば、いまの日本は少子高齢化が問題とされていますね。
しかし、世界に目をむければ、それ以上に深刻なのは、人口爆発と乳幼児の死亡という日本とは、まったく逆の事柄が、問題になっています。
その人口爆発と乳幼児の死亡の原因が、先進国による“善意”であるとしたら……
わかりやすくいいましょう。
アフリカなど貧しい国では、元々貧困ゆえに飢餓がありました。
先進国の人々は、“善意”で募金をしたり、寄付をしたりして、粉ミルクや小麦粉を送った。
それで、問題は解決したかというと、逆の結果になっているのです。
“善意”の粉ミルクと小麦粉によって、飢えた人は命をつなぐことができた。
しかし、体に栄養が入ることによって、生殖活動も盛んにできるようになった。
よって、子どもが増えた。
それまで、バタバタと死んでいたはずの子どもは、飢えに苦しんでいる。
あるいは生まれなかったはずの子どもがうまれた。
その結果、飢えた子どもが爆発的に増え、飢餓はより深刻になった。
運良く成長出来た子どもは、飢餓から少しでも逃れるために、犯罪に走るか、売春をするしかない。
結果として、いまアフリカ大陸の多くは、犯罪が異常に多くなり、エイズが蔓延している。
人口は増えているものの、餓死者、病死者も増えています。
つまり苦しむ人が爆発的に増えている。
これが善意の結果だったりします。
実に皮肉な結果です。
だからといって、食料援助をやめるというわけにはいかない。
援助をしないと、飢餓でいま生きている人が、バタバタと死んでいくからです。
そして悪循環は繰り返され、人口爆発と貧困はアフリカだけではなく、先進国まで重くのしかかり、エイズはますます世界中にひろまるということになっている。
見てくれだけの善意は、そういった悲劇を生む。
増えた人口を養うためには、莫大な農地がいる。
よく農地を、「自然」と解釈している人がいますが、農地というのは、人類が最初にやった“自然破壊”なんですよ。
森を焼き、開墾し、種を植える。
その分、本来あった自然は破壊される。
開墾のため、土砂は川から海に流れ、海の水質は汚染され、魚が少なくなり、当然、漁獲高が激減している。
また、農地は、雨水や地下水を貯めることができないため、開墾した農地は、やがて砂漠化していく。
これらも深刻な問題となっています。
だからといって、人類には食料が不足で餓死しているわけですから、開墾、開拓をやめるわけにはいかない。
やはり皮肉な結果になっています。
善悪の話しに戻りましょう。
“死”もまた、悪とされています。
しかし、必ずしも死は悪ではない。
60年程前まで、日本人の庶民は、50歳くらいで死んだ。
いまは、80年生きる。
それは“良いこと”なんですが、そのため高齢化、「働かないで部屋に引きこもったまま」「寝たきり」の老人が増えてくることになる。
長命にはなったが、寝たきり老人が増えているって善いことなんですかね?
それとも、寝たきり老人たちは、悪人なんですかね?
それとも死んじゃった方がいいんですかね?
こんなバカな話しはないでしょう?
生や死を、善悪で論じることがいかに無理があるかが、このことでもわかります。
また、わたしたちは、どこかで“悪”とされていることを、
「見つからなければ、やっていいのだ」
なんて思っているものです。
その一番いい例が、交通違反ね。(笑)
決められた速度を守って自動車を走らせている人は少ない。
そんな人は、逆に迷惑とされる。
そして、捕まった人を見てこう思うのですよ。
「運が悪かった」、「ドジなやつ」
ってね。
第一級の悪であるはずの殺人でもそうで、場合によっては、“善”もしくは“当然”とされる。
善悪というのは、そう単純に割り切れるものじゃないんです。
倫理・道徳だって、それが“善”であるとは限らない。
わたしたちは、そんな不安定な、観念的は社会に暮らしているのですよ。
だから、もっと柔軟に、したたかに、ときにはふてぶてしく生きていった方が、楽なんですね。
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)