普通ってなんだろう?

不登校』は普通じゃない。


なぜならば、日本における15歳以下の人口が、およそ1.800万人いるうち、不登校と定義される人口は、たった12〜13万人しかいないからである。



『ひきこもり』は普通じゃない。


なぜならば、日本人口が、およそ1億3000万人いるうち、たった100万人くらいしかいないからである。


ニート』は普通じゃない。


なぜならば、人口およそ1億3000万人いるうち、たった70〜80万人しかいないからである。





“普通じゃない”とは、圧倒的多数(マジョリティ)に対する圧倒的少数(マイノリティ)に対するお言葉と言ってもいい。


でも江戸時代、武士はほんの5%くらいしかいなかった。80%が農民であったが、武士は「普通じゃない」と、言われてはいないのです。

なぜなら権力があったから。


権力や実力のない少数(マイノリティ)は、叩かれる。圧倒的な人数という背景を持った人に問題視されるというのが歴史の必至であるというのも事実。


さて、『不登校・ひきこもり・ニート』は“普通じゃない”とされているかどうかはさだかではありませんが、あまり“普通”とも思われていなさそう。


なぜか?


「子どもは学校に行くのが当たり前」


「大人は仕事をするのが当たり前」


と言う大前提があるからです。


この前提は、2012年現在としては、「当たり前」と思ってよろしい。




つまり“普通”=“当たり前”




(ちなみに、“普通”、“普通じゃない”の前に、言葉のカテゴライズ化があります。つまり、『不登校』だの、『ひきこもり』だの、『ニート』だのという“言葉”を作り、カテゴリー化してレッテルを貼る。

これにより、レッテルを貼られた少数は、レッテルを貼られていない多数の攻撃対象になります)




よって、“普通”じゃない『不登校・ひきこもり・ニート』に悩むことは、それはそれで正しい。


悩まない人もいるのです。


むしろ悩まない人の方が問題があるのかも知れない。


不登校』に関して言えば、「まったく悩まない人(親)」というのがいて、育児放棄とも言える行為をしている人が、少なからずいるというのも事実なのです。


生きていれば、悩むのは当たり前であり普通。


人生は、どんな状態・環境であろうと悩むものでありましょう。




よって悩む方が普通。



もちろん、「悩まなくてはならない」と言うこともないのです。


多様化の時代、生き様はそれぞれでありましょう。



ちなみに“普通”ってのは、ビミョーな感情語でありまして、厳密に厳格に細かくこまかく言っていくと、誰も普通の人なんていなくなってしまうんです。 


よって“普通”の人は、居て居ないのです。




もとい。



一人だけいた。







わたしだけ 普通の人です。(笑)




不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)