世間世間というが世間とは……

太宰治著『人間失格』新潮社刊より―



「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」


 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、


「世間というのは、君じゃないか」


 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。


(それは世間が、ゆるさない)


(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)


(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)


(世間じゃない。あなたでしょう?)


(いまに世間から葬られる)


(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)


不登校・ひきこもり・ニート』の人というのは、目に見えない何かに怯えていることがありますね。

その目に見えない何かとは何か?

そのひとつは、世間でいう

当たり前

常識

かくあるべき

まあそんなものに縛られて怯えていたりします。


子どもは学校にいって当たり前

ひきこもってはダメという常識

大人は働くべき

自分がそうできないとき、家族をそうさせることができないとき、人は不安になったりします。

この世間と一緒じゃないと、不安になるっていうのは、特に日本人に多いらしく、ヨーロッパや中国には、それほど見られない症状だそうです。

不登校・ひきこもり・ニート』というものの不安には

「将来、どうなってしまうのだろう?」

という漠然とした未来への不安がひとつあります。

もうひとつには、太宰がいうように『世間』というものに対する不安もあります。

太宰はいう。


「世間というのは、君じゃないか」


ここで太宰がいっている「君」とは、堀田という他人のことなんですけどね。

世間とは、人だけじゃなく、自分自身も含まれているような気もするんですよ。

自分も含まれていて、自分にも他人にもうまく合わせられないから、しんどくなったり不安になったりするんです。

かく言うわたし自身もよく言われたんですよ。


「世間が……」


とかね。(笑)

人とは皆、微妙に違った生き方をしているのでしょう。

70億人の人がいれば、70億通りの人生があって、同じものなんて一つだってありゃあしません。


それでいいと思うんです。



FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)