不安な人間は極端になる2
前回に、『不安な人間は極端になる』という記事を書きました。
今回はその続編です。
人間というものは、精神的に不安になったり不安的になったとき、物事の考え方に余裕がなくなり“極端”になるようです。
最近では、原発事故について、過剰なまでの反対派が、極端な活動をしたりネットで、常識人とは思えないような書き込みをしていたりすることが目につきます。
一つの例として、タレントで焼肉店オーナーのたむらけんじ氏が「被災地の瓦礫受け入れに賛成」といっただけで、ネットで炎上してしまった事件がありました。
http://rocketnews24.com/2012/03/01/188132/
不安な気持ちになるのはよく理解できるのですが、中には個人攻撃や、ただの誹謗中傷としかとれないものもあり、第三者的に観ると、あまり気持ちのいいものではありません。
ときとして不安さゆえでしょうか? 『不登校・ひきこもり・ニート』の支援でも、これに似たような極端さを表すことがあります。
1980年代から2000年代はじめにかけて、ある不登校支援団体の人たちは、まさにそういった“極端”になってしまっていた人たちがいました。
ある地域で、不登校の子どもが平日の昼間に、警察から職務質問され、交番に保護されるということがあったのです。
それに対して、ある不登校支援団体が烈火のごとく怒りを爆発させました。
「何も悪いことをしていないのに補導するとは何ごとか!」
と、いうのです。
「おかげで不登校の子ども達が、おびえてしまって、外出できないではないか!」
と、言う人もいました。
また、こんなこともありました。
ある不登校の子どもが深夜徘徊をしていました。
警察に職務質問をされ、交番に保護されました。
それに対して前回同様に、ある不登校支援団体が烈火のごとく怒りを爆発させました。
「何も悪いことをしていないのに、交番に補導するとは何ごとか!」
嘘のようなホントの話しです。
その支援団体のクレームがあまりに激しいので学校側は、苦肉の策として、(これもどうかと思うのですが……)不登校の子どもが昼間出歩く場合、腕章をつけてはどうかという妥協案を出したことあります。
それに対しても、その支援団体は烈火のごとく怒りました。
「ナチスがユダヤ人に腕章をつけさせたの似ている! 差別である!」
と……。
その後、この事件がどうなったのかは知りません。
深夜徘徊のほうは、その後、実際に深夜徘徊をしていた不登校の女の子が、全裸にされて殺されるという事件が起きてしまい、その支援者たちも、あまり言わなくなったようです。
子どもが1人で平日の昼間に、歩いていたり、あるいは深夜に徘徊をしていた場合、警察官としては一声かけるのが職務でありましょう。
そのとき、子どもがちゃんと応答ができなかったりした場合、交番に保護するのも職務のひとつでしょう。
そうしないと、迷子の子どもを見捨てることになるかも知れず、あるいは非行少年を見過ごす結果になるかも知れないからです。
これら、警察や学校の対応に激しく抗議した不登校支援団体は、おそらく支援者自身が、不安を抱えていたか、傷ついていたため、極端な反応をしてしまったのかも知れません。
願わくば、支援者の方々は、余裕をもちつつ、そして当事者の立場に寄り添いつつ、常識的な対応、当事者にもっとも有利になるような対応をしていただきたいと思うばかりです。
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)