あきらめ論

あなたは『運命』や『宿命』を信じますか?


運命論や宿命論は、「あきらめ論」としてすごく有効です。


過去をあきらめ、未来をあきらめ受容するなら、人生はずいぶんと楽になる。


人の人生は



「ちょっとしたこと、ささいなことの連鎖」



で、大きく変わってきますね。


極端に言えば、交通事故。 ほんの数秒、早いか遅いかで事故にあうあわないかが違ってきます。



事故にあった人が、朝家を出るときに数秒間、靴を履くのが手間取っていれば、事故にあわなかったかも知れない。


歴史や人生は、後になってみると、すごい偶然が重なっていて、まるで運命が決まっているように見えるもの。


でも、いまの次の一瞬でさえ、ぼくたちにはまるでわからない。


後になって、「偶然は必然であったのだ」なんて、したり顔でいうしかない。


世界宗教のほとんどはね。


一種の『運命論』、『宿命論』がどこかに入っています。


キリスト教イスラム教、仏教とも、一種の「あきらめ論」的な思想があります。


キリスト教なら「神の御心のままに


イスラム教なら「インシャアッラー」(神がお望みなら)


仏教の「悟り」とは、世俗の欲望から解き放たれた状態。つまりいろいろな欲望に執着しない、つまり「あきらめる」ことといえなくもない。


人生には確かに、個人の努力ではどうしようもない“運命”とか“宿命”というものがあります。


例えば“生まれ”


大富豪の家に生まれるか、あるいはアフリカの飢餓に苦しんでいる家に生まれるかなどは、本人にはどうしようもない。


障害や病気を持って生まれるか、すっごく頭脳優秀で美形の人に生まれるかなんてもの、本人にはどうしようもない。



あるいは、会社の同僚や同じ学校のクラスでいい友人に恵まれるか、陰険ないじめっ子と出会うかなんて、本人ではどうしょうもないことろがあります。


自分の家族とか、過去とかをあきらめて受け入れると、それはすごくラクになるんです。

しょうがないことですから。


でも、“あきらめない”、“がんばる”なんてことも大切なんです。


たとえば我が子が、ニートやひきこもりの場合、その子が親の思い通りになるなんてことは“あきらめる”


でも、その子の未来や将来は“なんとかなる”くらいに思って“あきらめない”

みたいは、応用とか切り替えが必要だと思うんですよ。


運命を信じるもよし。


運命にあらがうもよし。


物事はすべて考え方です。


でも、人生の多くはあきらめちゃってもいいことの方が多いような気がします。


もっと“ゆるく”なって、肩の力を抜いたほうが、きっとうまくいくんじゃないかなあ。


力んでいては、かえってこじれてしまいますしね。



人生なんて、適当でいいんじゃないでしょうか?




FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)