天才と障害
トーマス・エジソン、注意欠陥障害。
ウオルト・ディズニー、多動障害。
これは、『天才はなぜ生まれるか』(正高信男著;ちくま新書刊)という本に取り上げられていた、脳に何らかの障害があったと言われる天才たちと、その障害です。
他にも、何らかの障害のあった天才は多くいて、俗に『天才と狂気は紙一重』とか『天才=奇人』みたいなイメージを、我々凡人は持っているくらいです。
よく、不登校関連の本とかに、これらの天才が書かれたりしているんですよ。
「アインシュタインは、落ちこぼれだった」
っていうたぐいのものですね。
この『天才はなぜ生まれるか』という本も、「彼らは、障害者ゆえに天才たりえた」というスタンスで描かれています。
こういう本や支援者の意見によっては
「だから、障害があってもいいんだ。むしろあった方がいいんだ」
みたいな描き方をする場合も少なくありません。
(違うような気もするけど……)
現実として、障害があろうがなかろうが、このような天才になれる人はほとんどおらず、障害がある人の多数が生きづらさを感じ、その親や家族も苦労をしていたりします。
アインシュタインの妹は、子ども時代よく兄に殴られていたらしく、
「思想家の妹になるには、頑丈な頭蓋骨が必要なのです」
と皮肉まじりに語ったといいます。
グラハム・ベルは、他人の心情を理解できず、そのため生涯友だちが出来ず孤独のうちに亡くなったといいます。
とはいえ、こういう障害を持って生まれてきたというのは仕方のない事で、その障害と付き合って生きていくしかない。
本人も周囲も苦労するかもしれないけど、障害を受け入れて、より良い人生を歩んでいくようにするしかない。
そういった中で、障害を持った人の中から、歴史を変えるような天才がたくさん出ているというのは、まごう事なき事実でもあり、それは、障害を持った人や家族にとって励みとなっていることでしょう。
別に本人が、天才でなくてもいい。
希望を持てればいい。
人生の極意とは、「あきらめと希望のバランス」です。
「受け入れる「とは「あきらめる」ことです。
人はあきらめることによって楽になれます。
それだけだと、力が抜けっぱなしになってしまうので、ささやかでもいいから「希望や夢を持つ」ことによって、人生に張りや、楽しみを持つことができます。
これを人はどのように表現してきたかというと、
「ケセラセラ、なるようになるさ」
「明日があるさ」
と。
そういえば、幕末の英雄坂本龍馬も、注意欠陥多動性障害であったと考えられています。
また、勉強ができず、寝小便たれハナタレであったそうな。
ある龍馬ファンの人が言ってました。
「巨椋さん、落ちこぼれた若者は、皆、龍馬を目指すんです」
ぼくは龍馬大好き人間なので、なんとなくわかる気がしますね。(笑)
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)