自殺について
『不登校・ひきこもり・ニート』の人たちが話しを聞いていると、ときどき耳にするのが、
「何度も死のうと思った」
という言葉です。
これはリストカットのような自傷行為をする人だけではなく、または自殺と関係が深いと言われている、うつ病と診断された人だけではなくてね。
『不登校・ひきこもり・ニート』の人たち、あるいは経験者からよく聞く言葉なんですよ。
中には
「いまから自殺しようと思うんですけど、いいでしょうか?」
というなんとも形容しがたい電話が、掛かってきたり、実際に会って話していると
「何度も自殺を試みてきたけど死ねなかった。自殺ってなかなか難しいんです。だからオレを殺してください!」
なんて迫られたことも何回かあります。
「なんでオレが、殺人者にならないといけないんです? 迷惑ですよ」
なんてお断りすると
「ああ、やっぱりオレは迷惑なヤツなんだ、生きている価値がないんだ」
とか言われてしまいこっちは、また困ってしまうわけです。
自殺について論じるには、
“死が悪であるか”
であるかを論じることになりますね。
で、答えはすべての人間の、宿命として“死”があるわけで、“死”が悪であるわけがない。
もちろん善でもない。
命の所有者というのは、本人です。
だからこそ、所有者以外が命を奪う殺人が罪になるわけです。
殺人の罪は、所有者の命を奪うだけじゃない。
その周囲の人にも、多大な悪影響を与えるんですよ。
“罪”とか、“悪”なんていうのは、自分以外の人に、悪影響を与えるから、罪とか悪になります。
現在、年間3万人以上の人が、自殺をする時代です。
ベトナム戦争での、米兵の戦死者が約4万5千人。
ベトナム戦争って、7年間もかかっている戦争なんですよ。
戦争の死者数を軽く2年で超えるのが、現代日本の実態だったりします。
と、いってもわたしは、自殺を完全否定しようとは、思っていないんです。
仮にわたしが不治の病にかかったとして、苦しみながらの延命治療で10年生き長らえるよりも、安楽死を選びたい。
それを罪とか悪と呼んでもらいたくはない。
また、多くの人が言うように
「生きていれば、いいことがあるさ」
などということは、一種のおためごかしでしかないような気がします。
死にたい人は、いまある地獄、もしくは空虚感を何とかしたいんです。
いまある地獄を、あるいは空虚感をなんとかするのは、本人の"心次第"としか言いようがない。
まわりの人は、その地獄や空虚感を埋めるそのお手伝いをするに過ぎないんでしょうね。
かといって、もし仮に、日本が法律で『自殺禁止法』なんてのを作ったら、わたしは大いに反対するでしょうね。
自分の生命くらい、政府や行政が干渉するなってね。
だからわたしには「自殺したい」という人に対して「死なないでほしい」っていうくらいしかできない。
だから死なないでほしいです。
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)