常識を応用せよ
前回「常識に縛られるな!」という記事を書きました。
常識というのは、ぼくたちが日常生活を営んでいく上でとても大切なものです。
「世の中」や「世間」「社会」というのは常識、つまり「知っていて当たり前」のことや、「過去からの慣例」で成り立っている部分があります。
ですから、やみくもに常識を破ったりすると、周囲の人に大変な迷惑をかけたり、困惑されたり、場合によっては犯罪者となってしまったりします。
だから常識は大切。
しかし『不登校・ひきこもり・ニート』系の人や保護者の方は、ときとして常識に縛られてしまうことがある。
たとえば、子どもが学校に行かなくなる。
親が「子どもは学校に行くのが常識」と考え、「学校に行かないのは非常識」と、その考えに縛られてしまうと、親も子も余計は苦しみを抱えることになる。
そこで、「子どもは学校に行くのが常識」という考えを少し柔軟にして考え直してみると、苦しみから逃れることが可能になる。
なぜ子どもが学校に行かなくては“ならないのか?”
それは子どもの将来を考えてのことでしょう。
もし、短絡的に学校に“行かなくてはならない”と考えを縛ってしまうと、子どもの腕を引っ張って学校に連れて行ったりすることがある。
ところが、子どもは学校に行くと(親が先生には言わないが)ひどいイジメにあっているかも知れない。
もしそんなとき、強引に学校に引っ張っていくとすると、それは
親が我が子を無理やりイジメの現場に連れて行っているのと同じことになる。
これはひきこもりやニートの人の場合もいえることで、本人や周囲が「子どもは学校に行くもの」「大人は働くもの」と短絡的に決め付けてしまい、強引なことをしてしまうと、本人に大変大きな傷をつけてしまうことになるかも知れない。
そのために、自殺をはかったり、精神を病んでしまう場合もある。
もちろん、強引な行動もときには必要な場合もあります。
これもケース・バイケース。
と、なると、本人や周囲にとって何がベストかを考えて応用していってほしいものです。
常識は知っておいたいいし、ある意味知っていて当たり前。
その常識も業界や社会が違うと、また違ってくるもの。
誰だって、海外にいって日本の常識を違うからと、相手に全部日本流にしないと許さないなんていう人はいないでしょう。
常識を知り、それを応用せよ。
ってことですね。
下の文は、ぼくが何年か前にブログに書いた文章です。
参考までに添付しました。
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わたしはいま、プロトコールについての文章を執筆する仕事をしているのですが、プロトコールというのは、日本語だと『国際儀礼』という言葉になります。
『国際儀礼』というのは、国家間でなんらかの話し合いをするときに、誤解を防ぎ、お互いに不愉快にならないように、マナーを統一して決めておこうという平和のための礼儀作法のことです。
人間には、それぞれの民族・文化・宗教・国家等でそれぞれの常識や礼儀作法があり、礼法が違う民族と接触した場合、お互いに不快感や争いごと、は戦争を避けようとする決め事と言えます。
国際間では、このプロトコールを知ることが“常識ある人間”として、当たり前のことであったりします。
人間社会ではこの“常識”がないばかりに、人から軽んじられたり、誤解を受けて攻撃されたりすることが少なくありません。
平和で安全に暮らすためには、“常識”を身につけておくことはとても重要です。
また逆に、常識を疑うことも重要だったりもします。
常識を知り、そしてそれを応用していくというのが、よりしなやかに、よりしたたかに人生を生き抜くコツであるのかも知れませんね。
『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)