彼らの心は修羅場にある


よく、『不登校・ひきこもり』の関係者から、 「不登校やひきこもりは、甘えでも、怠けでもない」 というコメントを聞くのですよ。


でも、関係のない人に納得してもらうことは、なかなか出来ないようです。


わたし自身、すべての『不登校・ひきこもり』が、「甘えや怠けではない」なんて、言い切るつもりはないんです。

いろいろな人がいるから、いろいろな場合があるのでしょう。

よく「不登校・ひきこもりは百人百様」なんて関係者がいます。

その通りだとすると、当然「甘えや怠けの場合もある」と、いう方がより正しいといえます。

だから、決めつけることはしません。



ただ、多くの場合『不登校・ひきこもり』と人が、甘えや怠けなどではなく、まったく逆な立場にあります。



まったく逆とは、彼らの心の中は修羅場にあるということです。



人間というのは、ルール(掟・規範)があるから、安心して生きていける。


明文化されたルールじゃなくても、暗黙のルールがある。ルールを、道徳や倫理と言い換えてもいいかも知れません。


わたしたちは通常、人と会っていていきなり襲われるとは考えていないですよね。

会社にいったり、学校へいって、同僚や同級生にいきなり襲われると思っていない。

夜眠っていて、家族が襲ってくるとは、普通思わない。

人格を否定されるとも思っていない。







しかし、『不登校・ひきこもり』の人たちから話しを聞いていると、そういう悲惨な目に、いつも遭い続けてきたという場合が少なくないんです。






これは肉体的暴力だけじゃなくて、言葉による暴力や、人格を否定されるようなこと、虐待やいじめも含めてです。



普通、生活をしていて、誰かからいきなり殴られたり、暴言を吐かれたりするというのは、まずないから、わたしたちは当たり前に、人と会ったり道を歩けるんです。

つまり、そういったことをしてはいけないというルールがあり、そのルールに我々が守られているから、安心して生活ができる。


もし、そういったルールがなく、家族や知人が、いつ襲いかかってくるかわからない、いつ人格を否定する言葉を投げつけらられるかわからないという生活を想像してみてください。








安心して生活などできません。


いつも警戒していなければならなくなる!







不登校・ひきこもり』の人たちの中には、そういった環境で生活をせざるを得なくなり、安心して人と会えなくなってしまった人も多いだろうと思います。


社会や学校、家庭が安心できる場でないとすれば、その人はどこに居ればいいのでしょうね?


安心していられる場所は、限られてくることでしょう。


「安心しろ」


なんて言っても、裏切られ続けた人には、難しいでしょう。



そういった人たちは、ルール無用な修羅場に住んでいると言っていい。



自動車を運転していて、周囲の自動車が交通ルールをまったく守らない道を走っているようなものです。


誰だって怖くて走れなくなる。



もし交通ルール無用の道で、走れなくなったとき、「走れないのは、甘えや怠けである」が、言える人は、おそらくその修羅場を知らない人なんでしょう。



すべての『不登校・ひきこもり』の人がそうであるなんて言いません。

ただ、そういう場合も少なくないということだと思います。


ですからわたしは、こういいたい。


「人間、誰もが皆、ときに甘えることも怠けることも必要である。TPO(時と場所と場合の使い分け)さえわきまえていれば、人はもっと甘えても怠けても構わない!」

と……。



『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)