問題は問題だと思ったときに問題となる
『不登校・ひきこもり・ニート』って、社会問題として取り沙汰されていますよねえ。
でも、 問題は、問題だと思ったときに、初めて問題になるんですよ。
え?
なんのことかわからない?
考えてみればカンタンなことです。
人間という生き物は、生きている間で起こる日常の事柄を、ほとんどすべて問題化できる種族なんです。
ダイエットをするべきかやめるべきか?
髪型や衣服はこれでいいのか?
お菓子を食べるべきかやめるべきか?
仕事をやめるべきか続けるべきか?
離婚しようか結婚しようか?
自分の給料は高いか安いか?
問題のタネは、何でもいいんです。
これが問題と思ったら、何でも大問題になっちゃう!
第3者から見れば、 “くっだらねえ!” としか思えないことに、生きるの死ぬのだの、殺すの殺さないのなんて、大問題になっちゃうのが人間。
人間という種は、そういう風に出来ているといってもいい。
だから人によって、同じ問題でも悩む人と、全然悩まない人が出てきます。
『子どもが学校に行かない』からというので、親がパニックを起こし、子どもに対して『アンタなんか産むんじゃなかった』責めたてたり、『自分の育て方が悪かったのかしら?』と、自信をなくしうつ病になってしまう人もいれば、『他の方法もあるさ』と、柔軟に対処する人もいます。
『どうしても職につけない、働く気がない』と思い、『自分は生きている価値がないんだ』と思う人もいれば、もう少しフラフラして自分の生き方を考えたいという人もいます。
わたしが、『不登校の真実』という映画を製作したとき
「考えてみれば、わたしは不登校だったんですねえ……、中学とかほとんど行ってないし、巨椋さんが映画を作らないと、自分でも気がつきませんでしたよ」
なんていう人が、何人かおりました。
そういった人にとって、不登校は問題ではなかったんです。
悲しい事実として、次のような事件もあります。
『子どもが不登校になった。
親はそれを大問題とした。
嫌がる子どもを無理やり学校に連れていった。
子どもは自殺した……』
この“自殺”が“自殺未遂”なら、その例は爆発的に多くなります。
悲しいことに、親御さんは、子どもさんの“将来”を心配したのでしょうが、それが仇となって、子どもさんの“いま”を、ないがしろにしてしまったということかも知れません。
でも無理もない。
親であれば、子どもの“将来”を気にするものです。
本人だって自分の将来を気にします。
でもね、将来はまだ見ぬ未来であり、わたしたちは“いま”を生きているんです。
著しく“いま”を傷つけて、将来を望むよりも、“いま”、いまこのときを大切にした方がいい。
“いま”という時間は、おもしろいことに
「いま……」と思った次の瞬間に過去になっています。
1秒先も常に見えず、“いま”という瞬間でさえ、一瞬で過去になる。
人間は常に“いま”しかありません。
未来や将来について思い悩むより
過ぎ去った過去を思い悩むより
いまを生きた方がいい。
過去はもう取り戻せませんが、考えようによってそこから学ぶことが出来る。
将来は、予想はできるけど、どうなるかはわからない。
問題は問題だと思ったときに問題になる。
はたして、いまその問題は、それほど最悪な事態であるのかどうか?
もしかしたら、それほどでもないかも知れません。
『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)