人は、自分も他人も支配できない



よく【愛のため】とか【あなたのため】という言葉を聞きませんか?


どちらもよい言葉ではありますが、その影に【他人を支配したい】という欲求が、隠されていることに気付いている人は多くありません。


「わたしはあなたを愛しています」という言葉の裏には、「わたしはあなたを思い通りにしたい」、「あなたをわたしの所有物にしたい」という欲求が、隠れている場合が多いのです。


「あなたのためなのよ」と、母親は子どもを叱りますが、その心の裏側には、子どもが自分の思い通りにならないという苛立ちがあることが多くあります。


これは親子だけではなく、恋人同士や夫婦間にも、よく見られること。



【愛のため】、【あなたのため】というのは、あなたを思い通りに支配したいという欲求が、必ずどこかに混じっています。




さて、親は子どもに対して、「わたしがあの子を変えてみせる」と言う場合があります。


これも、恋人間、夫婦間、ときには友人同士でも、「わたしがヤツを変えてみせる」と、思うことがあります。


そして、その多くは徒労に終わります。


なぜでしょう?


その前に、そうあなたは自分自身のことを「変わりたい」、「変わらなきゃ」と思ったことはないでしょうか?


で、思ったとおりになりましたか?


思ったとおりに変わったという人は少ないと思います。


「わたしは変わった」と、思っている人でも、それは表層的な面だけであり、本質はそれほど変わっていないのではないでしょうか?


人の心や性格というのは、そう簡単に変わるものではありません。


また、自分の意思や他人の意思で、そう簡単に変われるものでもありません。




人は、自分すら、なかなか変えることができないのです。


まして、我が子や恋人、配偶者や友人とはいえ、自分以外の人を変えようというのは【傲慢】というものです。



それは、【愛】や【あなたのため】という美しい言葉を借りた“残酷な支配願望の表れ”でしかすぎません。


【人の為】と書いて【偽(にせ)】と読みます。


【愛の為】、【あなたの為】と、人を支配しようとしている人は、自分を支配できていない人です。


そもそも、自分を支配することなど、極めて難しいことで、修行を積んだ高僧ですら、できることは、「自分の弱さを認める」ということ程度だといいます。


自分の弱さを、認められない人が、他人の弱さを認めることができないのと同じように、自分を支配できない人が、他人を支配することはできません。


できるとしたら、それは暴力に等しい力を使ってのことでしょう。


溺れている人が、他の溺れている人を助けようとしても、足を引っ張り合うだけです。


溺れているときは、無駄な力を抜いて、まず自分が浮かぶことです。


【愛のため】【あなたのため】といいながら、我が子や人を支配しようとするのはやめましょう。


【あなたを信じて待っています】なんて、相手にいうのは、期待や希望の押し付けです。

相手が【いつか自分の思った通りになると願っている】ということに等しいのですから、相手にとって、決して気持ちのいい言葉ではありません。



それよりも、まず、自分の弱さを知り、自分を喜ばすことです。


自分が楽しくなれば、それを見ている周囲の人も楽しい気持ちになります。


周囲が楽しくなれば、自分もうれしくなります。



これが、好循環のはじまりです。




不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ