母の愛情という言葉に疑問を感じることがあります



【愛】という言葉は“便利な言葉”で、いろいろなところで“美化”して使われます。


この言葉は、使い方ひとつで人を窮地に追い込む言葉であることを、我々は知っておいたほうがいいのです。


わたしが聞いた怖い使い方。


わたしが不登校関係の講演にいった後、ある母親の話しを聞いていたときのことです。


そのお母さんは、これまで我が子の不登校や反抗に悩み、しかし、最後にこう思ったといいます。



「これまで、とても苦しく悩んできましたけど、これからは“溢れるような母親の愛情で”子どもを包んでいと思います」



この言葉を聞いたとき、わたしは「?」と、思ってしまったのです。


この言葉は、一見とてもいい言葉ですが、そのお子さんは幼児ではないのです。


すでに思春期を過ぎており、子どもは、大人になるために親離れの試行錯誤として、反抗をする時期すらも越えている年齢でした。


子どもは、自立するために、親から独立するため、大人になるために親に反抗します。


しかしその母親は、“溢れるような母親の愛情”という美名で、その子の、自立を阻む行為を繰り返しているように感じたのです。


その行為は、子離れしたくない母親からの、子どもへの成長妨害であるようにさえ思えたのです。


おうおうにしてあるのが、不登校やひきこもりなどを持った親は



「自分の育て方が悪かったからだ。これからは、その分を取り返すために、これまで以上の愛情を子どもに与えよう」



と、子どもを抱え込もうとします。


しかし、子どもはすでに成長して、これから大人になるために、親から自立するために、親離れの行為。つまり親への反抗をしようとします。


そんなとき、母親から公然と、「母の溢れるばかりの愛情」なるものを、押し付けられると、子どもは反抗することもできなくなってしまいます。


ときとして、親は“愛情”という美名で、これから社会に羽ばたこうともがく子どもの両翼を押さえ込もうとしてしまうことがあります。


いわゆる【愛】とう名の、過保護・過干渉というやつですが、その結果、親は子離れができず、子は親離れしにくくなってしまうのです。


子どもが、育っていくために、子どもを1人の人格として尊重し、子どもを受容することは大切ですが、すべてを受容してしまうのは間違っています。



子どもの暴力や、規範を逸した行為を受容するというのは、子どもからすれば、「親が見守ってくれている」というよりも「親から見放されている」と、思ってしまう行為です。



また、逆にすべてに干渉し、管理しようとするのも、子どもの自立を妨げます。


これは子どもに対するだけのことではありませんが、人間同士のいい距離感がないと、いい人間関係は結べません。


それと、なぜわたしがそのお母さんの


「これからは“溢れるような母親の愛情で”子どもを包んでいと思います」


という言葉に「?」と、思ってしまったのかといいますと、それまでそのお母さんのお話しでは、幼児期のころより、子どもを管理しようとし過ぎているということだったのですが、この言葉は、その管理・過干渉という言葉を“溢れるよな母親の愛情”という言葉に、すり変えているだけのように感じたからです。



同時にそのお母さんの顔が、そういいながら、“かなり無理をしている”と、感じたのですよ。


そういっているお母さん自身が、「母親の愛情という義務」に、すでに疲れているように感じたのです。


お母さん、あまり無理しないで……
それよりもお母さん自身が子離れしないとね……


と、そのとき思ったのでした。






不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ)