自己責任論と線引き


不登校・ひきこもり・ニート』の関係者と話していると

「わたしが悪いんじゃない。●●のせいだ」

なんていうセリフを実によく聞きます。

それを聞くたびに、「なんだ、この人たちは、まだガキなんだ」と、思ってしまいます。


「●●のせいだ」は、



「わたしがひきこもりなのは親のせいだ」
「わたしの子どもが不登校なのは学校のせいだ」
「わたしが不幸なのは政府が政府のせいだ」



などといっているわけですよ。


そういった自分以外の誰かのせいにして、拗ねているわけです。

……

……



ふ〜ん……



じゃあ、その人がいまから成功したら、政府がよかったからとか学校様のおかげと考えを変えるんでしょうか?



いえいえ、そうった人に限って、

「失敗したのは誰かのせい、うまくいったら自分の努力」

なんて主張するんでしょうね。




なんでも自分のせいっていうのは間違ってます。

同じくなんでも人のせいっていうのも間違ってます。



責任とは、自分に任されたことをしっかりとやることです。


それは自分でできる範囲のものでなければなりません。


自分でどうしようもないことは、あなたの責任ではありません。


自分に任されたこと、自分で行なったこと、自分で引き受けたことをしっかりとやることが「責任をとる」ということです。


自己責任と他のことに対して、ちゃんと一線を引くことができる人、自分のしたことの尻拭いを自分で出来る人が、「自立した人」「大人」ということになります。


だから立派な人ほど、「自分の周りにおきたすべてのことは、自分の責任である」と思う傾向があります。


ただ、そういった立派な人の場合特徴があって、その特徴とは



「必要以上に自分を責めない」



ということですね。


自分を責めずに、自分に何かできることはないかと探し、それがささいなことでも、自分ができる範囲のことを実行する。



これが「わたしが悪いんじゃない。●●のせいだ」と、いって、自分のためにも人のためにも、何もしない人との大きな違いです。


実際のところ、世の中のほとんどのことは、あなたの責任ではありません。


「わたしがひきこもりなのは親のせいだ」
「わたしの子どもが不登校なのは学校のせいだ」
「わたしが不幸なのは政府が悪い」


と、自分の不遇を誰かのせいにする人の多くは、自分が「あんたが悪い」と責められて傷ついた経験のある人でしょう。


多くの場合、それはあなたのせいではありません。



世の中で、誰かのせいと特定できることは、案外少ないんです。

そこで、とりあえず誰かを責任者に仕立て上げ、責任を取らせたりします。


さて、ここで提案です。


一時的に「●●のせい」と、誰かに責任を押し付けて「わたしは悪くない」と、言ってみることは、一時的に自分の傷を癒す効果があります。


しかし、いつまでもそのままだと、ただ拗ねているだけなので、どこまでが自己責任で、どこからは、自分ではどうしようもないこと、仕方がないことの線引きをしましょう。


また、この方法は、一時的な緊急避難的な方法でしかありませんから、「●●のせい」と言い続けている人がいるとすると、その人は、そのジレンマから抜け出れないでいる人か、あるいは政治や思想、ビジネスに利用しようと思っている人でしょう。


自分ではどうしようもないこと、仕方がないことは、受け入れて聞き流すが、できる範囲で変えようする程度にし、その責任まで自分で負うことはありません。


自己責任の線引きができる人が自立した人、大人なのです。



不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ)