ボーダーレスの時代



時代は刻一刻と変化を続けます。


かつて世界は西と東に分かれて対立をしていました。


それが1989年にドイツのベルリンの壁が壊され、1991年ソビエト連邦の崩壊により、東西の冷戦構造が一応の終結を見ました。


それは、それまであった古い価値観が、音をたててひび割れていく時代のはじまりでもありました。


ここでいう『古い価値観』とは、主義や体制だけのことではありません。


ありとあらゆる観念が…… です。


それまでは、人との接し方、人間関係は、出身民族や国、民族、地方、学校、家族、職場、職業が、その個人を自己確立させていたのですが、そういったものの『価値基準』すら、ひび割れをはじめたのです。


それ以前では日本の義務教育、特に小学校においては、『タテマエ』として、「教育の機会均等」、「義務教育では、成績による評価をしない」、「運動会では順位をつけない」ということが『正しい』とされていたのです。


ところが、ベルリンの壁ソ連の崩壊のあたりから「でもそれって、嘘じゃん」という声が公然と出てきたのです。


国家や権力の指導や強制ではなく


民衆、庶民の間から、ムラムラと本音が出てきたのです。


「それって現実じゃないし、偽善じゃん」という声が……


それまでは……、例えばソ連崩壊の年でもある1991年では、日教組(にっきょうそ)の委員長であった槙枝元文氏などは


「良識ある日本人は全て偉大なる金日成同志に心から尊敬の念を持っている」


「日本は北朝鮮のような国にならなければならない」


と言い、北朝鮮大韓航空機爆破や拉致事件が明るみに出ていた後にも関わらず、北朝鮮から「親善勲章第一級」をもらっていたりします。


日教組といえば、公教育の教育者の労働組合であり、当然、児童生徒を教える教育者たちの集合体であるのですが、当時はいささか片寄った思想に傾倒していたのでしょう。

それが「学校の先生たち」にとっての「正義」であったのかも知れませんね。


そういった考えや思想も1990年代にピキピキとひび割れていきます。


それは、家庭や学校教育の現場でも「で、ホントのところはどうなのよ?」という空気が強く出てきます。


これが“絶対的”、“普遍的”である公教育崩壊の序章であったのかも知れません。


実際のところ、1990年以降、それまで以上に公共の学校教育以外の教育、民間の塾などが力をつけていて行きます。


また、男は会社、女は家庭といった感覚も急速に薄れていき、生活空間も、生活様式も、食事時間や就寝時間さえ、個人によってバラバラになり、多様化してくるようになりました。

みんなが朝起きて、会社や仕事に行くというものだけではなく、家庭によって、あるいは家庭内のそれぞれによって、寝る時間も食べる時間も違うということが、増えてきたのです。


これが何を意味しているかと言うと、各家庭、各個人によって、生活様式が違ってきたということです。


それまでは、朝7時に起きて、8時に会社や学校に行くために家を出るというのが、国民的に当たり前であったのが、各家庭、各個人によって違ってくるということでもあります。


いろいろな意味で、ボーダーレス、境界があいまいな時代になってきたと言えます。


境界があいまいになればなるほど人は不安になります。


それでなくても、「右へ習え」という国民性。


時代の空気が、ボーダーレスになっても、個人的にはなかなか対応できるものではありません。

対応できずに不安になるのが当たり前なんです。

こんな時代は、かつて人類がほとんど経験したことがなかったのですから。


例えば、子どもが学校に行かなくなる。行けなくなる。


これまでの価値観だと、大人は仕事、子どもは学校。


タテマエは平等ですから、みんな一緒じゃないといけない。


ホンネでは取り残されたらエライことになると思ってる。


すると、どうしていいのかわからない。


という状態が起きたりします。



ボーダーレスの時代とは、多様化の時代でもあります。


これまでは、“全国民的”な集団行動であったのが、その集団は小さく、細かく分かれてくるようになります。


ある家庭では、朝4時に起きる。ある家庭では朝10時に起きるなんてことが、起こるようになってきました。



また、社会の空気も個々によって変わってきており、それまで“暗黙の了解”であったことや、“タブー”であったことも、公然と語られるようになってきました。

例えば、日本という国は武力を持ってはならないという憲法があります。

そうすると「自衛隊は軍隊じゃないっていうけど、それって嘘じゃん」

「ってことは、憲法って嘘じゃん」


などと、かつては“分かっていても言ってはいけないこと”が、公然と語られるようになりました。


不登校問題ならこれまでは「子どもは学校へ行くべき」であったのが、

「公共の学校より、もっといい学校があれば、公認されていない学校でも、子どもをそっち通わせたい」

という親が出てきたり、

「子どもが学校に行きたくないのなら、行かなくてもいい」

「塾に行かせて、高校卒業認定をとって大学に行かせた方が、この子にとっていい」

という考え方も出てきました。

「必死に仕事命でやるのもいいけど、もっと趣味や家庭を大切にしたい」

という人も出てきました。


これまでの固定概念、固定観念に呪縛されている人は、その呪縛を解いた方がいいのでしょう。


国立大や有名私立大を卒業し、大企業に就職したからと言って、必ずしも幸せが保障されると思われていた時代は、過去のものとなりつつあります。


有名大学を卒業し、大企業に入社しても、心の病に倒れる人。

退社を余儀なくされる人。

自ら、働くの拒否する人などが多く出てきているからです。



一番大切なのは、自分個人という時代がきたのでしょうね。

必死に働きたいのであれば、大いにやればよろしい。

仕事以外のものをエンジョイしたいのであれば、そうすればいい。


ただ、どちらにも、一長一短はあります。


あなたがどうするかです。


でも、どんな人生を選んだにせよ、あなたはあなたでいいんじゃないでしょうか?





不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ)