いじめといじめ自殺

学校は子どもに対して、必ずしも安全な場所とは限りません。



いま、子どもがもっとも、暴力や犯罪に巻き込まれる場所は、家庭内と学校です。



子どもにとって、もっとも安全であるべき場所がもっとも危険な場所であるのは、実に残念ですが、どうもこれは事実であるようです。



それは共に、極めて表に出にくいのです。



わたしは学校を否定する気はありません。



しかし盗難や暴行、いじめという事件が起こるということは否定できません。



どのような組織、団体であっても、どのような理想をかかげている組織団体であっても、人間が人間である限り、そのような事件が起きると思っています。


で、あるとすればそういったことが、いつでも誰にでも起こりうると考えて、対処法を考えておく方がいい。



さて、今回のテーマは『いじめといじめ自殺』です。


『いじめ』を「強者が弱者に対して行う嫌がらせ・暴力」とするならば、わたしは人間社会からいじめがなくなるとは思えません。


それは、大人社会でも、先進国でも後進国でも、どの国、どの民族の歴史を見ても、人間は「強者が弱者に対して行う嫌がらせ・暴力」を執行するからです。


そう、アフリカやアマゾンの部族でも、シベリアやイヌイットの社会でも。


人間は、他の動物のように天敵はいないと思われていますが、わたしは確信を持っていいましょう。


「人間の天敵は人間」


と……


しかし、「強者が弱者に対して行う嫌がらせ・暴力」は、なんとしても防ぎたい。減らしたい。



方法はあるのか?


あるとすれば、それは徹底したいじめ否定の話し合い。


個人の誇り、プライド、羞恥心を持ち、「弱い者いじめは、卑怯者のやることだ」と思い、教えることもその方法のひとつでしょう。


もし、いじめに、盗難がある場合、暴力がひどいときなどは、「いじめ」というよりも「犯罪」ですので、場合によりけりですが司法の介入。



また、教師による生徒へのいじめ「強者が弱者に対して行う嫌がらせ・暴力」は、ときどき起こっており、これは強者である教師自身がもっとも戒めなければならないことでしょう。



そして、学校側、教育委員会などの隠蔽(いんぺい)体質を改めて欲しい。



わたしはかつて、いじめ自殺を取材したことがありますが、その隠蔽体質はあまりにもひどい。


実際、「いじめ自殺」であるにも関わらず、“学校内でのいじめや犯罪はなかった”ことにして、“ただの自殺”として処理されることが、実に多いのです。



いじめがあったことを隠すことより、「いじめがあったことを早々に認めて解決する方法」を真剣に考えた方がいい。


また、自殺以外の解決法があるというのを知らせるのも大切だと思います。


学校で自殺を考えるくらいいじめられているなら、「学校に行かない」という方法を公認することは必要でしょう。


また、子どもが学校に行かないということを選択した当人、家族に“罪悪感”を抱かせないようにすることも必要であると思うのです。


また、近年、子どもたちは、いじめへの復讐方法として、自殺というものがあることを学習してしまっています。


これは、いじめ自殺を報道するマスコミの責任も大きいかと思われます。


わたし自身も、こういったところに自殺について書くときに、充分に注意が必要であると感じています。


自殺は復讐の道具にはなりません。


自殺という方法ではなく、人生をやり直すことは何度でも可能です。


それは、大人になってからも同じで、何かがうまくいかなかったら、それを糧にして、やり直せばいいんです。


わたしはそう思っています。






FHN放送局代表
巨椋修(おぐらおさむ)