いじめ考


よく


「いじめは、いじめられるほうに原因がある」


などという人がいるじゃないですか。


あるいは、


「いじめは、いじめるほうが100%悪い」


などという人もいますね。




事実から目をそむけずにいいますと、「いじめられるほうに原因がある」なんていうことは、当たり前のようにあります。


同時に必ずしも「いじめるほうが100%悪い」と、言い切れないこともあります。



このように書くと、マジメな方々から、「何を言っているんだ!!」を、ヒステリックにお叱りを受けてしまうかも知れませんね。(苦笑)


しかし、もし、その人が「いじめの現場」をよく知っている人なら、わたしが言わんとしていることがわかるはずです。




いじめというのは、戦争や暴力、差別などと同じで、人類にとって宿痾(しゅくあ・治らない業病のこと)といってもいいくらいのものなのです。 




業病ですから、「いじめは悪である」よって「いじめをする人間は悪人であり」「いじめられる人間は善人である」などといった、単純な二元論では、片付けられないものがあります。






しかしながら、我々は、まず「いじめは良くない」と、理屈ぬきで決め付けなければなりません。




そのうえで「いじめ」という業病といかに闘っていくかという覚悟をしなければなりません。





「いじめるほうに原因がある」「いじめるほうが100%悪い」などといった単純な考え方をしていると、かえって「いじめ」問題をこじらせ、陰湿化をまねくだけになります。



また、極論はいつも、人を誤らせます。



いじめるほうにも、正義があるのかも知れません。



いじめられるほうにも、正義があるのかも知れません。



これはいじめだけではなく、すべての差別にも、すべての戦争にも言えることなのです。




これは、子どもだけではなく、大人のいじめも同様です。



あまり一方的に決め付けてしまうと、とんでもない落とし穴にはまってしまう怖れがあります。









不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ)