家族という幻想

社会だの世間だのと言うものは『家族というのは、無条件でいいものだ』という幻想を持っています。


「子どもを愛さない親はいない」


「親を好きじゃない子はいない」


これらは、一種の社会通念であり、またそうである場合が圧倒的に多いと思うのですが、人間関係というのは、そうカンタンに割り切れない、ある意味、一種の幻想とも言えますね。


人間が人間と密着していればいるほど、軋轢(あつれき)が起こるのは当たり前です。


以前『家庭内殺人』という項で書いたように、日本で起こる殺人事件の約半数は、家族・親族間で起こっているのが現実。


子殺し、親殺し、兄弟殺し、夫婦殺など、家族殺人とはいえ、その背景も様々であり、内容を吟味してみると、加害者に対して「無理もない」と思うことも多く、いちがいに「こうだ」と決めつけるというのは、短慮、安直、単純、浅はかと言えます。


家族というのは、幸せの発生装置であると同時に、不幸の発生装置にもなりうると言うのが、現実と言えましょう。


どの家族でも、一種あやういところがある。


そのあやうさを、誰も直視しようとしない。当事者ですら、そのあやうさから目をそらそうとする。



社会は常に変動しています。

ところが我々は、過去の常識やいまある幻想に縛られてしまっているように思えます。

かつて、女性の結婚は、「クリスマスケーキ」などと言われ、25歳までに結婚しないと、売れ残りという幻想がありました。


いまの時代なら、親の介護は子どもがやるものという過去の常識があります。


しかし、ところがそれでは現代社会では、通用し難いという現実があります。


現代社会に適応している人なら、ほどいいところで介護サービスを受ける。相談機関を利用する。

その方が双方ともに楽であるからです。


ある調べでは、老後子どもの世話になりたいとか、一緒に暮らしたいという高齢者は意外と少なかったりします。


過去の常識や幻想に囚われている人は、無理をして疲れきってしまったり、老人を働かすのは良くないと何もさせず、そのため返って寝たきりを促進させてしまったりするといいます。


幻想を捨て、現実を見る


場合によっては、親子が離れて暮らす方が双方にとっていいということもあるかも知れません。



ほどいいところに、落し所を見つけて、実行するというのが、一番いいのではないかなと思ったりしています。





不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ)