ホラー映画と社会の闇・心の闇


ぼくは「短編ホラー怪奇幻想映画祭」なんてのを主催して、もし次があるとしたら、ぼく自身の監督作品を出品できたらいいななんて思っているんですけどね。


ときどき「『不登校・ひきこもり・ニート』とかいう教育とか福祉に関することにかかわっていてなんでホラーなの?」


なんて聞かれることがあります。


答えとしては、ぼくが『不登校・ひきこもり・ニート』に関するブログをやったり、それについての映画を撮ったりしているのと、ホラー映画に関ることって特に意識しているわけじゃないんですよ。


ただ……


どちらも、社会の闇や心の闇にスポットライトを当てることであるというところは、共通しているかも知れません。


ホラー映画の題材って「怨み」とか「憎悪」とか「残虐性」「エロティシズム」がベースになっていることが、多いんですよ。


一方、『不登校・ひきこもり・ニート』の当事者って、どこかホラー映画の「幽霊側」「怨みを晴らしたり」「相手を呪う側」に、共通するところがあるような気がします。


「カーテンの隙間から誰かがのぞいている」とか、「悪魔の声が聞こえる」なんて、ホラーや怪談だと、ドラマになるけど、統合失調症の症状そのものだったり、『不登校・ひきこもり・ニート』の人たちの多くが持っている被害妄想とか、そういった人たちがときどき事件を起こすストーカー行為って、ある意味「リアルホラー」じゃないですか。

なんか、そういった傾向があるんだけど、ホラーや怪談を擬似物語として、楽しんでしまうくらいの軽度の人じゃないと、なかなか作れないと思うんですね。


仕事柄、よく幽霊を見る人や、UFOを見る人、中には、UFOに連れ込まれて変な金属を体に埋め込まれているなんて人と会うことがあるんですけど、そういった人たちって、ある共通点があるんですよ。


子どもの頃に、イジメや親からの虐待経験があったり、大病をした経験がある人がとてもたくさんいるんです。


もちろん、全部じゃないけど、たぶん、そういうつらい寂しい思いをした人が、自分を救うために、そういう妄想を自分の体験談として信じてしまっているのかも知れません。


その人たちにとって、幽霊を見る。UFOを見たり、連れ込まれたりするという妄想は、おそらく現実の自分の体験に比べて“救い”になるのではないかと思っているんです。


だから、ぼくはそういった人を会っても、決して否定しない。

ちゃんと話しを聞きます。


じっくり聞いていると、どこかつじつまが合わなかったりもするのですけど、それがきっとその人の“救い”になっているとすれば……


やっぱり否定するべきじゃないと思うんですね。


ホラー映画や怪談って、そんな社会の闇、心の闇の救いでもあると、ぼくは思っているんです。


不登校・ひきこもり・ニートを考える』
巨椋修(おぐらおさむ)