弱者は正しいなんて誰がいった?


不登校・ひきこもり・ニート』に関るようになり、これらの人たちを相手に支援や商売をしている業者をみていて、ときどき思うことがあります。

そういった業者の人は、よくこんなことをいうのですよ。



不登校の子どもは、みんないい子で、むしろ、いまの学校に行っている子のほうがおかしいんだ」



「いまの時代、まともに働くなんてバカバカしい。ニートは正しい」


「ひきこもっているほうがマトモ」



たしかに、そういった人たちを相手に商売をしている人にとって、そういった人たちが増えることは、とても良いことに違いありません。(苦笑)

それとそういったことを言いたがる人の根底には、


『弱者=善』


のような考えかたがあるみたいなんです。

わたしは、この考えかたはちょと怖いと思っています。


では『弱者=善』という考えかたを、実際に世の中で実践してみるとどうなるか?


例えば、『不登校・ひきこもり・ニート』を弱者と仮に、あくまで仮にですよ。仮に定めた場合、これらのことは、正しくて、良いことなのですから、当然、一人でも多くの人が、『不登校・ひきこもり・ニート』になったほうが良いということになります。


「良いこと」なのですから、いま、『不登校・ひきこもり・ニート』ではない人も、みんなこぞって『不登校・ひきこもり・ニート』になるかも知れません。


「良いこと」なのですから、その結果、『不登校・ひきこもり・ニート』の人は、良い生活、幸せになっていることでしょう。


当然、そんな幸せで良い生活をしている人たちには『暖かく支える』という意味である、支援など必要ないということになります。


なんかすごく矛盾していますね。(笑)



で、結論からいいますと、『不登校・ひきこもり・ニート』を善悪論で語ってはいけないということです。


不登校にしても、ひきこもり、ニートにしても、善でも悪でもないということです。


ただ、これらの状態になると、多くの人はとても苦しい思いや罪悪感をいだくようになります。

支援者は、その苦しい思いを取り除くお手伝いをしたり、罪悪感をなくすようなお手伝いをする必要があると思います。


このとき「善悪論」で語る人は、その人の苦しみを取り除くために、どこかに「悪者」と作らないといけなくなります。


多くの場合、悪者は「政府」であったり、「成功者や金持ち」であったり、「自分以外の誰か」ということになります。

それが極端になると、「誰でもよかった」と、自分以外の誰かを襲うようになったりします。


だって「自分は被害者で、自分は悪くない」という善悪論ですから、「自分=善、自分以外=悪」となり、自分をいじめた社会に正義の鉄拳をふるうという歪んだ論理になってしまいます。


そしてこれら、単純な二者択一の考えかたがもっとも安易で、納得しやすいものでしょう。


これまで「自分が悪いから」という考えが、「自分が悪いのじゃないなら、誰のせいなのだ? 親か?学校か?社会か?」となりがちなのですね。


すると『不登校・ひきこもり・ニート』の問題解決という論点から、まったく外れてくるのです。


問題解決は、善悪論でいうところの、悪を倒せ! 悪を殺せば自分は幸せになる! というものではなく、


「いまある苦しみから、どうやって逃れて楽になるか」


「自分や、自分の周りの人にも迷惑をかけないですむようになるか」


というのが、一番大切なことだと思うのですよ。


ですから、敵や悪者を作ることで、自分の正しさを証明しようとするのも間違っています。


「弱者=善」とか「強者=悪」とか、その逆の論理では、問題は解決しない。


「善悪論」では問題は解決しないと思っています。







不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ)