「準」ひきこ森という本を読んでみる

ひさしぶりに『「準」ひきこ森』(講談社+α新書 樋口康彦著)という本を読みなおしてみたのです。


準ひきこもり」というのは、わたしが普段使っている「ひきこもり系」とか「ニート系」といっている単語と類似している観念と思っていいでしょう。


ただ、この本の著者の樋口康彦氏は、大学教員ということもあって、「準ひきこもり」は、学生を対象としており、「ひきこもり・ニート系」は、学生も含めた全体的な観念であるといえると思います。

また、いささか厳しい意見、ときに偏りがある意見かなと思えるところもありますが、とても参考にあることがたくさん書いてあります。


この「準ひきこもり」ですが、樋口氏がいうところの特徴を、いくつかピックアップしてみましょう。




準ひきこもり大学生の特徴


(1)性格


・自分の力で自分の人生を切り拓いていくというたくましさに欠ける。

準ひきこもりは男子学生の方が多いように感じるが、社会で期待されている男性役割を身につけておらず、性役割の取得において葛藤が見られる。



・社会経験の不足から、極めて自己中心的で視野の狭い考え方をする。



・精神病ではない。現実との接点はある程度残っているし、善悪の区別はつくので犯罪を犯すようなこともない。むしろ他の学生よりも大人しくて真面目な部類に入る。


・孤独に静かに大学生活を送っているケースが多いが、少し親しくなると甘えた非常識な言動、わがままの押し付けなど自己中心的言動を取ることがある。

学生の間ではストーキングやセクハラの常習者としてマークされていることもある。

これは、本人にはそんなつもりはなくても、社会の標準がわかっていないことから、つい不適切な言動を取ってしまうことによる。



・謙虚で常識をわきまえており、周囲を悩ませないこともある。一口に準ひきこもりと言っても、異常性には違いがある。



(2)知的側面(学習)


・真面目で大学での成績も良い。どの授業にも真面目に出席している。



・レポートや卒論を書くというのは基本的に自分一人の世界での作業であるため、比較的得意である。



(3)社会的側面



・無気力で、実際には人恋しいものの他者との関わりを避けようとする傾向が強い。

クラブ活動やアルバイトの類はしていないし、体育大会や大学祭など学校行事にも参加しない。

また、お祭りなどの地域行事にも参加しない。

それから下宿をしている場合には、家族とのコミュニケーションさえ少ないため、準ひきこもり傾向を加速度的に強めて行くことがある。



・アルバイトに関しては、過去にやったことはあったとしても現在はしていないことが多い。

結局自分にとって居心地の良い世界(社会と関わらない自分だけの世界)に落ち着くことになる。

つまりアルバイトでさえもできないというのが実情である。

アルバイトに精を出す大学生というと否定的に見られがちだが、準ひきこもりの大学生よりはましである。



・人間関係をうまく行うことが苦手である。例えば、質問をしたり会話を続ける努力が少ない。ある意味で、孤立するのは必然と言える。



・友人が極めて少なく、いつも一人でいることが多い。

他の学生から受け入れられず孤立しているという共通の境涯を絆にして同じ準ひきこもりの学生(キャンパスの孤立者)と一緒にいることがある。

また、恋人はいない。



・優しくしてくれる誰かに、甘え、強く寄りかかろうとし、その結果厳しく拒絶されて傷つくことがある。これは長年にわたる実質的なひきこもり生活のため、人との距離を適切に取るということができないために起きる。

また学生からは相手にされないため、教師に対し辟易させるほどしつこく付きまとうことがある。



・孤独感から他者(特に教師)の関心を引こうとする行動を取ることがある。

教師にしつこくつきまとい悩ませていることも多い。

一方、教師の側からすれば指導上の難しさがあってもなかなか周囲の理解を得られないということになる。

ゼミなどを通じて深い付き合いをすると、明らかに他の学生とは違うとわかるのだが、付き合いのない教師には少々非社交的な感じではあるものの普通の大学生に見えるためである。



・若者らしい溌剌さ、元気の良さがなく、暗くよどんだ雰囲気を持つ。外見には自信のなさが滲み出ている。

気軽に声をかけづらい独特の雰囲気を持っている。

長年孤立していると、こうまでいびつになってしまうのかと驚嘆するほどである。



・全体的に見て、知的側面に比べて社会的側面が未熟である。




樋口氏はいいます。

準ひきこもり症候群を甘く見てはいけない。準ひきこもりの人がどんな集団に入ろうと、たいていは不適切な言動で他人を不愉快にさせて、その結果浮いてしまい、辞めざるを得なくなる恐れが十分ある」
『「準」ひきこ森』−P36


「人と接する機会がないことで人間関係について学習する機会が奪われ、さらに孤立するという不適応スパイラルの無間地獄に陥っている」


「自分が周囲とうまくやれないのは周囲の人が悪いからであり、自分が悪いとは決して考えない」
『「準」ひきこも森』−P68


と、厳しい言葉が並びます。

そして


準ひきこもりを受け持った教員は最初「淋しそうでかわいそうだ」と言い、「教育の力で変えてあげたい」などという、しかし、接しはじめて半年もすると「指導が困難である」「まったく効果がない」としか言わなくなる。老人介護と同じで生半可な覚悟では準ひきこもりに接することはできない」
『「準」ひきこも森』−P106


とも書いております。ただ、これは学校教育の限界であろうかと思うのです。


未成年だと家庭教育のほうが、力があるでしょうし、成人していれば、その人がどういう思いでいるのかということが重要になってくるのでしょうね。


そして『ニート・ひきこもり系』を支援するという人は、それなりの覚悟がないといけないということでもありましょう。



また、樋口氏はこんなことも書いております。


「人はみな、社会不適応者として生まれてくる。勇気をもって他者と触れ合って、手段を積み重ねて、はじめて社会適応者になれる」
『「準」ひきこも森』−P106




さて、この本に対する評価はいろいろで、

「そうだ。これはオレのことだ」

と思う人もいれば、逆に激しく反発し

「これは違う!ばかにするな!」

という人もいるそうです。



現在『不登校・ひきこもり・ニート』に関する本でこのように、厳しく現実的に書かれてある本は少ないのではないかと思います。



そして、もうひとつ言えそうなのは、この本に同意する人も、反発する人も、その人たちは『準ひきこもり』であるか、『ひきこもり・ニート系』の人たちなのであろうなと思います。

この本は、かつて紹介したこともあるのですが、いま一度、紹介してみようと思いました。

いろいろと考えさせてくれる一冊です。


(他、参考と引用;『大学生における準ひきこもり行動に関する考察』より)



不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表』
巨椋修(おぐらおさむ)