原因を追求する必要はあるか?


もしあなたが、『不登校・ひきこもり・ニート』などに悩んでいるとする。


あるいは、あなた本人ではなく、お子さんや知り合い、近所の人が悩んでいるとする。


または、そうではないにせよ、何らかの心のつまづきや、性格の弱さに悩んでいるとする。



あなたは、その原因を追求するべきであろうか?



もしあなたが、それらの解決を望んでいるのだとすれば、答えは、

【原因追求は、あまり役に立たない】

ということになるでしょうね。




大学の研究室や、わたしのような作家なら、原因追求は必要なのかも知れません。

しかし、それらを改善したい・解決したいという【当事者】には、あまり必要ではないんですよ。




なぜか?


仮にその人が、『ひきこもり』になったのは、

「親の不適切な育て方と、本人虚弱体質による育てにくさ、そして生来の性格の内向性である」

という、原因が判明したとする。






で……


どうするのです?





原因がわかったから、その後、親を責めますか?

自分の弱さを呪いますか?




残念ながら、原因がわかったからといって、問題解決にはあまり役に立たない。


おうおうにして、親を恨み、環境の悪さを嘆き、自分の弱さを呪うにとどまる。




少なくとも、わたしはそう言う人を何人か知っている。


と……、すれば……



主眼を、過去の原因探しではなく、いまの自分を受け入れて、今と未来の自分を探す方が、有益なのではないか


と、考えます。




いつまでも過去の呪縛に捕らわれていても仕方ないんです。





不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表

巨椋修(おぐら おさむ)