この子を殺して、わたしも死のうと思った


「この子を殺して、わたしも死のうと思った」

そう語る不登校のお子さんを持つ親御さんは、決して少なくありません。

「お母さんが、あなたが学校に行かないと、あなたを殺してわたしも死ぬ」

と、言われたという不登校当事者も少なくありません。


わたしは、不登校問題の本質は、子どもが学校に行かない・行けないことではなく、その裏側に多くの事柄が潜んでいると考えているのですが、この言葉も、その一つと言えるでしょう。


考えてもみてください。


子どもが学校に行かないというだけで


「おまえを殺す」


と、言っているのです。


子どもが学校に行かないというだけで


「わたしは自殺する」


と、言っているのです。


冷静になってみれば、この言葉がいかに常軌を逸しているかがわかります。


言われた子どもにとってこの言葉ほど、恐ろしいものはありません。


子どもというのは、衣食住のすべてを親に依存しています。

つまり、もっとも信頼すべき人間が、親であるにもかかわらず

「いうことを聞かないと殺すぞ」

「いう通りにしないと、わたしが自殺する」

と、いうのです。


こんな言葉を投げかけられた子どもは、親を信用することができなくなると同時に、絶望的な罪悪感に責めさいなまれることでしょう。


他人であれば、あるいは自立した大人であれば「お前を殺して、わたしも自殺する」などという人と、距離を取ることもできますが、自立できない子どもにとって、どうしようもありません。


“たかだか子どもが学校に行かない程度のことで”殺す、自殺するとまで思ってしまうのは、いかにその親が追いつめられているかがわかります。

そこにはおそらく【ただ子どもが学校に行かない】という理由以上のものがあるのでしょう。

おそらく、その親には、子どもが学校に行かないという理由以外にも、多くのストレスや何らかの事情があると察することができ、その親を責めるのも間違っています。


もし、子どもが不登校のため、そのような考えを持ってしまった親御さんがいたら、少し冷静になって、自分を追いつめないようにしてほしいものです。


“たかだか不登校”なのです。


我が子を殺すとか、自殺するような問題ではありません。

その子が将来幸せに生きてくれたら、それでいいじゃありませんか。(笑)



不登校・ひきこもり・ニートを考える FHN放送局代表

巨椋修(おぐら おさむ)