自覚することの重要さ

不登校・ひきこもり・ニート、このすべての当事者、保護者、支援者や教師に“自覚”が必要です。

自覚は、問題を抱えている人だけではなく、生きている人すべてに対しても、「自覚している人と自覚できていない人」に大きな差を生み出すことになります。

ここでいう“自覚”とは、

「自分の悪いところ・改善すべきところを、なるべく正しく知る」

ということです。

基本的に人間というものは、多くの場合「自分が正しい」と思っています。

そしてまた、人間というものは、自分のことを正しく見ることができません。

これは自分の後頭部や背中を自分の肉眼で見ることができないのと似ています。
自分の後頭部を見るためには、鏡などの道具を使ったり、他人に見てもらうしか方法がないのです。

“自覚”とは、そんな自分の良さ悪さを、なるべく等身大に、客観的に見てナットクすることです。

例えば、お風呂に入るのが面倒くさくて、滅多にお風呂に入らない人がいたとします。
当然、体臭は臭くなってきますが、自分の体臭というのは自分自身ではなかなか気がつかないもの。
そんなとき誰かから「キミ臭いよ」と、指摘されたとします。

そのとき

「そうか」と自覚してお風呂に入って体を洗う人は、臭くなくなるでしょうし、お風呂に入らないと臭くなると学習できれば、今後定期的にお風呂に入ることによって、今後体臭が問題になることはなくなるでしょう。

「そんなバカなことがあるか!」と、他人の指摘を無視して自覚しないままだと、その人は後々まで体臭が改善されることはないでしょう。

「オレじゃないよ、アイツだよ」と、人のせいにする人もいるかも知れませんが、その人も改善されないでしょう。

「そうなのか!」と自覚したものの、恥ずかしくなってその後、一切人前に出られなくなる場合も、例えその後お風呂に入るようになったとしても、改善されたと言い難いかも知れません。

逆に、体臭などないのに、自分で気にしすぎて人前に出られなくなる人なども、「正しく自覚している」とは言い難いでしょう。


このように、いくら人に指摘されても、それを“自覚”しない人は、いくら他人が厳しく指摘も、あまり効果はありません。

自ら気付き、改善しようとする気がないと、いくら他人が口酸っぱくいっても改善はむつかしいのです。

また、指摘する人が正しいとも限りません。

それを判断するのも、本人の自覚次第ということになります。

自分で気付き、自分で助けを求めるなり、改善のための行動をしようとしないと、問題解決はとてもむつかしいのです。

逆にいえば、自覚して「なんとかしなきゃ」と思っている人は、すでに半分以上、問題解決に近づいているといえるのではないでしょうか?


『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)