それでもいじめはなくならない
大津のいじめ自殺事件への報道や意見が“炎上”といっていいほど加熱していて、まだしばらくはおさまりそうにない状態です。
この事件を教訓にして、少しでもいじめに関する悲劇が少なくなることを願ってやみません。
ぼくはいじめや差別、戦争というのは、人類の業病のようなもので、そう簡単になくなるようなものではないと考えています。
これまで人類は「戦争は悲劇だ! 戦争を防ぐためには敵国を徹底的にやっつけてしまわなければならない! さあ友よ銃を取れ! 平和のために戦争だ!」とばかりに戦争に邁進してきた歴史があります。
「差別をする奴は最低だ! そんな奴は差別してしまえ!」と、かえって差別反対者が差別を推進してしまうことだってあります。
ですから、こういった物事を二者択一的に考えてはいけないと思っています。
いじめもしかり。そりゃみんな仲良くと理想どおりにいけばいいのですが、人間3人集まれば派閥ができると言われているくらいで、どんな集団でも仲良しグループがうまれ、中には仲間外れにされてしまう人も出てきてしまいます。
それを学校の先生や会社の上司が強引に、みんな平等に仲良くしましょうなどと、強制したとしてもどこかにイビツさがでてしまうというもの。
政治家や権力者が、そういったことを強制しようとすると恐怖政治や全体主義になってしまいかねない。
学校内のいじめとかですと、そこはやはりある程度の教師など大人の介入が必要となります。
しかしそれも行き過ぎると、子どもは窮屈になってしまう。何でも自由なんてのは大反対ですが、ある程度の融通といいますか、ゆるさとのバランスが必要なのでしょう。
だからぼくは「いじめを完全に撲滅したほうがいい」とは、理想論としてはいいけれど、それを強制するのはちょっと怖いと思っているのです。
人間同士というものは、集まれば必ず軋轢が生まれます。
特に子ども時代は、そういったことから学ぶこともたくさんあるかと思います。
いじめと上手に付き合うなどというと、語弊がありますが、ただ過剰なまでに「いじめ撲滅」が叫ばれている昨今、それだけでは弊害も出てきかねないと危惧したりもしているのです。
もっとも、いまの状況では、こんなブログを書くだけで、大変な非難を浴びかねないというちょっと異常な事態になっているような気もしています。
いま「いじめ撲滅」という意見がさかんですが、それでも人が人である限り、いじめはなくならないでしょう。
しかし、いじめというのは、大変な苦痛であり一つ間違えば犯罪にもなることですから、上手に封じ込める手立てを、考えていかねばなりません。
いまのところ、ぼく自身もこれが有効などという妙手はないのが、なんとも残念なのですが・・・
巨椋修