自分せい? 人のせい?


この前、出版社さんの編集さんと飲んだんですよ。


で、『不登校・ひきこもり・ニート』にせよ、なんにせよ、【誰かのせい】にしてしまえば、すごく楽ですねって話しになったんです。



「○○のせい」っていう言い方が建設的じゃないので「○○のおかげ」ってことにして、ぼくの原稿がおもしろくなったとしたら「編集の○○さんのおかげです」とか、

「この本が売れたらは編集の○○さんのおかげです」って、なんでも「○○さんのおかげ」にすることにしたんです。(笑)


もう、これは新手のいじめみたいなもので、今日のお酒が美味しいのは「○○さんのおかげ」、「このお刺身がおいしいのは○○さんのおかげ」って、げらげら笑いながら、遊んでました。
(なんか、ツボに入って、笑いがとまらなかったんですよ(笑))


これは「○○のおかげ」だけじゃなくて、たとえば国際的な問題などは「すべてユダヤの陰謀」とかっていうことで片づける人とかいて、これはこれで、楽でいいんだろうなあと。(笑)

そんなに「ユダヤの陰謀」が凄かったら、パレスチナ問題とか、とっく片づいていたり、ユダヤ人が迫害されるなんてことも解決されているという現実を、それらの人たちは、無視しているんですけどね。(笑)


また、「悪いのはユダヤ人のせい」というのがナチズムに利用されて、ユダヤ人虐殺になってしまったという歴史もあります。



さて、そんなことがあったので【誰かのせい】について、今回は書こうかと思います。


【誰かのせい】っていうのは、【わたしが悪いんじゃない】っていう責任逃れでもあるんですけど、この技を使うと、なんでも“一応”おさまる。(笑)


たとえば、「我が子が不登校なのは学校が悪いから」
「我が子がニートなのは政治が悪いから」


たとえば、「ぼくがひきこもりなのは、親の育て方が悪かったから」
「ぼくの頭が悪いのは、先生の教え方が下手だから」


とにかくなんでもいいんです。自分に都合の悪いことは、すべて誰かのせいしてしまえば、それなりにいいわけができます。


ただし……



そうやっていると、一時的な憂さ晴らしや、緊急避難にはなりますが、

いつもやっていると、他人からバカにされますし、

情けないやつと思われてしまいまうし、

自分で自分を尊敬できなくなってしまいます。





いっぽう、自分に自信のある人は、少なくとも自分の周辺で起きることは、なるべく自分の責任であると考えようとします。


「わたしの子どもの成績が悪いのは、子どものせいではなく、わたし教育法が間違っていたのかもしれない。だから反省して、これから改めよう」


「ぼくが『ニート』なのは、ぼく自身になにか問題があるのかも知れない。だから、これから少しずつ変えていこう」



と、こういう風に書くと、後者のほうが、人に好感を持てると思うのですよ。


だから、ある程度の柔軟に考えられる人は、自分の周囲で起きることは、自分のせいと思っていたほうがいいということになります。



でもね、ここからが大事。



自分を持つ。自分のせいできるっていうのは、文字通り、自信がある人、つまり自分をある程度信じられる人じゃないと難しいんです。


そうしないと、「自分のせいだ。自分が悪いんだ。自分なんかいないほうがいいんだ」と、どんどんマイナスの方向に考えてしまうんです。


これじゃあ全然ダメ!


じゃあ、どう考えればいいかというと、


自分のせいの範囲を決めること!


自分の責任の範囲ね、ここまでは、自分の責任、ここからは、わたしには負えないよって、ラインを引くことです。


ラインといっても、これはそのときの状況や、状態でゆらぐものですから、かなり柔軟に考えておいたほうがいい。


海の上にロープを張って、ここまでは自分の責任、ここから先は別って考えるようなものですね。

でも潮の流れで、多少、領分が増えたり、狭くなったりするみたいもの。

そこらへんは、杓子定規にではなく、柔軟に境界線を考えると。



よく『不登校・ひきこもり・ニート』系の人が、おちいりがちな間違いとして、ガチッと境界線を決めてしまい柔軟性がなかったり、境界線を決めることができなくて、近ずき過ぎたり、離れすぎたり極端になることがあるんだけど、これは、いい距離をえらんでほしいと思います。



大切なのはね、全部自分のせいとか、全部他人のせいとかって間違っているんです。


全部なにかのせいって考えると、そこに無理ができますからね。


「悪いのは全部ユダヤ人のせい」だといって、ナチのユダヤ人虐殺がおこったがごとく。


「悪いのは全部資本主義のせい」といって、カンボジアポルポトが自国民、4分の1を虐殺したがごとく。





適当にいい距離を……


適当にいい境界線を……


引いてほしいですね。


そうそう、やはり数日前、「巨椋修(おぐらおさむ)のオールニートニッポン」によく出てくれていた飯田泰之さんという経済学者と飲んでいたんですけど、なんか思い出したみたいにいってましたね。

オールニートニッポンの中で、巨椋さんだけが自己責任論を語ってた。他はどちらかというと左よりの人ばかりで、巨椋さんだけが保守だったよね」

いえいえ、ぼくはいまも昔も中道。

国や行政が負うべき責任と、個人が追うべき責任を分けて考えているだけですよ。



『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)