選択肢がたくさんあるということとは……

民主主義というのは、ある意味希望もありますけど、ある意味ものすごくあやうい制度でもあるんですよ。


プラトンなんかは


「民主主義はあまり良くないけれど、いまのところこれしかない」


みたいなことを言ったらしいですし。


民主主義って言うのは、それまで『君主のためにあった国家』が、『みんなのための国家』になるわけです。


公教育制度もしかりで、戦前の教育は「君主のため」であったのが、民主主義になると、「みんなのための教育」「みんなの国家のための教育」になります。


学校なんかも、「みんなのためなんだから、一人だけ学校に行かないのは良くない」
ということになりかねない。(苦笑)


「みんなのため」「みんな平等」という考え方は、間違えると「みんな同じ」になり、「みんな一緒でなければ“ならない”」という考え方になるおそれがあります。


いわゆる全体主義というやつです。


いまの義務教育制度がそれに近い。


いまの義務教育制度というのは、ちょっとしたの矛盾を抱えていて


「みんな平等でなければならない」「ひとり一人の個性を重視しなければならない」


ということになっています。


平等でありならが、ひとり一人の個性を重視するっていうのは、大変難しいことです。


それなら、児童生徒や保護者の意向により、いろいろな選択肢が多くなれば、多少なりにでもそれに合わせることができるかも知れません。


昔、「塾を学校に」という人がいましたが、「学校が塾化」してもいいのかも知れま
せん。


つまり教育の多様化。



勉強を必死にやりたい児童生徒は、それ向きの学校や教室へ行く。


のんびり学びたい人や自由な校風がいい人はそういった学校や教室へ行く。



優秀な人は15歳くらいでも大学にいって勉強に専念してもいいし、それぞれの学力や個性に合わせて学んでいくという方法。

もちろん高齢になってから、学校で学びなおしてもいいみたいな。



いまの学校はどちらかというと、全体主義で、みんな一緒がいいみたいなんですけど
これからはそんな時代じゃないような気がするのです。


まあ、現実として考えたら、あまりにも多くの問題があるので、無理なのかも知れま
せんが、学校の価値自体が、問われていますので、いろいろな考えがあっていいのかなと。
(笑)


どんな問題があるかと言えば、この方法だと、エリートと非エリートを作る可能性が極めて大きいんです。


では「みんな一緒の全体主義の学校」だと、上を押さえ込み、下をちょん切るということになる可能性も大。


人間の作る制度というのは、いつだって不完全なのでしょうね。


そうすると「競走したい人はすればいいし、降りたい人は降りていい」という方がマシとしか言いようが無い。


もし、選択肢がたくさんできるようになったら、それだけ個々が違う考え方、生きた方を選択するようになります。


つまり全体主義の反対方向、みんなバラバラになっていく。


一極化でもなく、二極化でもなく、多極化していく。


そうなると、自分の生き方を認めてもらう代わりに、違う生き方も容認していかないといけなくなります。


言ってみれば、町にゴミ屋敷があっても、そのゴミは所有者にとってゴミじゃないから、他人が勝手にそのゴミを処分してはいけないみたいなものです。


で、あるとすれば、そんな時代の生き抜き方は


「多少我がままを言ってもいいから、それなりに住みよい環境にしていくしかない」


自分の我がままを聞いてもらうためには、自分も妥協しなければいけないしょうし、人にも妥協してもらわないといけませんしね。(笑)



『FHN放送局』
巨椋修(おぐらおさむ)