精神障害者の犯罪
前回、精神障害者の犯罪、つまり「触法精神障害者」について少し書きました。
ここで触法精神障害者についての要点を少しまとめます。
●触法精神障害者とは、精神病を患っている犯罪者のことである。
●精神病患の刑法犯は、全体の0.7%くらいであり、全体からみると、とても少ないと言える。
●しかし凶悪(重大)犯罪となると、凶悪犯罪者の10人に一人が触法精神障害者となっている。
(凶悪(重大)犯罪とは、放火・殺人・強姦といった犯罪を指す)
●「平成15年版犯罪白書」によると、触法精神障害を病名で見た場合、多い順に、精神分裂病(465人),そううつ病(58人),アルコール中毒(42人)となっている。
これらは法務省発行の「犯罪白書」を参考にしたものですが、こういった数字を出すと必ず
「なんでそんなことをわざわざ発表するのですか!? こんな人はほんの一部で、精神障害の方はみんな気の毒で、いい人ばかりなんです!」
と、言う人がいます。
残念ながら、すべての病人は気の毒ですが、“みんないい人”っていうのは、ちょっと違います。
病気であろうがなかろうが、違法行為を行う人がいるかどうかってだけのこと。
むしろ精神障害だから……と、いうのは一種の差別であると、わたしは考えています。
そして、刑法犯自体が、犯罪全体のほんの一部であることも事実。
その中の凶悪犯罪者は、もっと少ないというのも事実です。
そして精神障害自体も、最近ようやく社会的に認められてはきたものの、決して特別多いという病気でもなく、また、めずらしい病気というものでもない。
しかし凶悪犯罪者のうち10人に1人が精神障害者というのは、これは多いとしか言いようがない。
そこで、ふたつの極端な対立意見が出てきたりしてきますね。
A.触法精神障害者は危険である! よってすべからく収容して永遠に野放しにするな!
B.触法精神障害者にも人権はある! よって強制的にではなく人道的に治療すべきた!
さて、ここでA.の意見は当然却下ですね。
では、B.の意見はどうか一見すると、“人権・人道的”とか言って良さげなんですが、罪を犯した精神障害者の場合、そのまま病院に措置(強制)入院させるということで、触法精神障害者の「言い分を主張する」、つまり権利を主張するという場、裁判の場を奪うということになりかねない場合もあります。
同時に被害者の主張する場を奪うということでもあり、これも一種の人権無視。
B.の意見は、触法精神障害者を裁判や、法の裁きを受けられない人、つまり半人前扱いにしているともいえます。
あくまで、わたし個人の意見を言わせてもらうと、法や刑罰というのは、ひとつには人々が安心して生活するためのルールであり、刑罰には、ルール違反をすればこんな不利益があるということで、罪を予防することと考えています。
被害者の復讐を国家に託すことによって、復讐による治安の悪化を防ぐという効果があるのも事実です。
そして裁判は、双方の言い分を主張しあい、社会が納得のいく裁きをすることで、治安を守るという役目もあります。
しかし、触法精神障害者で不起訴になり、措置入院になった場合、双方の言い分を主張する場が失われる。
加害者にも理由があったかも知れないのに、強制的に入院。
被害者にも言いたいことがあったかも知れないのに、その機会は失われるということになります。
罪を犯した場合、犯人が精神障害者であろうがなかろうが、被害者の立場から刑の軽重を決めていけば、こういったことはなくなると、個人的には考えております。
人間には、正気と狂気の区別なんてつかないですよ。
また、中には精神障害者は危険だから、全員収容して野放しにするな! みたいなことを言う人もいます。
これはちょっとひどくて、魔女狩りと同じになりかねない。
「あいつはおかしいから、強制収容しろ!」
「あいつは何を仕出かすかわからないから、強制収容しろ!」
「あの強制収容しろ!って叫んでいる人はおかしいから強制収容しろ!」
ってことになりかねない。
病気は、あくまで病気であって、罪でも悪でもないんです。
病人が犯罪を犯したとき、はじめて犯罪者になり、裁判にかけられるんです。
これはどんな人でも一緒。
精神病でも、そうでない人でも一緒であるというのが、本来は正しいはずなんですけどね。
もし精神障害者に凶悪犯罪者が多いとすれば、どうすればそれを未然に防ぐことができるのか?
ってことが一番大切になってきます。
もちろん、すべて強制入院なんてのは論外です。
ハンデキャップのある方には、手厚い医療と手厚い福祉、それに家族や周囲の方々へのサポートが必要なのはいうまでもありません。
精神障害者の方々に限らず、人間がカッとなったりするときは、その裏側に、本人のストレスや、怒り、恐怖、哀しみといったものがあるといわれます。
できうることなら、そういったストレス、怒り、恐怖、哀しみといったものを、なるべく少なくすることが、凶悪犯罪に限らず、平和な社会を維持する方法であるのかもしれません。