支援するということ
『不登校・ひきこもり・ニート』に関して、支援したいという人は、たくささんいらっしゃいます。
とてもいいことだと思います。
また、カウンセラーになりたいという人も、増えていると聞きます。
そのように思う人の多くは、自らも何らかの悩みを抱えた経験があったりして、何とか力になりたいと思っている人も多いようです。
もし、そういった方々、支援したいという方々へ、何か提言ができるとしたら、次のような言葉になるでしょう。
有償無償に関わらず、必ず一線を引いて置くこと
これに尽きますね。
よく聞くのが、軽い気持ちで、「なんでも相談してよ」っていって、相手の人も安心して、心を開いたときに、あまりのことの重さに引いてしまって、こんどは話しを聞けなくなるってことがあるんです。
そうなると、相談してきた人を避けるようになる場合があります。
相談した人にとって、悩みを人に打ち明けるというのは、大変な勇気がいるわけで、信用した人に悩みを打ち明け、そのために、その人から避けられるとすれば、相談者は、二重に傷つくという結果になります。
相談を聞くというのは、それなりの“覚悟”がいることです。
よく、自殺した人の友人とかが、「一言、相談をしてくれれば……」と言いますけど、相談をされたって、何にもできないということも多いんですね。
例えば、中年熟年の自殺には、借金苦なんてのが多いんですが、その借金の肩代わりとかできることじゃありません。
相談者が、
「連帯保証人になってくれ、このままだと、自殺するしかない」
って、いってきたとき、
「連帯保証人なんていやだ。自分のことは自分で始末をつけろ」
で、終わってしまったとしたら、相談した人は、恥をさらしただけで、ますますどうしょうもなくなってしまいます。
せめて、無い知恵を貸したり、
「弁護士に相談してみようよ」
くらいのことは、言ってあげたいものです。
できたら、
「キミが不安だったら、オレが代わりに弁護士センターに電話してやるよ」
と、言ってあげれれば、一層いいんでしょうが、実際はそれだけのことをするのも、なかなか大変なことです。
『不登校・ひきこもり・ニート』の支援というのは、一定のラインを引いて、
「自分ができるのは、ここまで」
と決めて、自分が負えないことに深入りしすぎないようにする必要もあります。
例えば、ダンナや恋人に暴力を振るわれている女性や、子どもがいたとして、軽い気持ちで、
「とりあえず我が家に泊まって避難してもらおう」
と、思ったとします。
そうすると、その人のダンナや親が、玄関を蹴破って奪還にくるということだってあります。
蹴破ってくる人の片手には、包丁が握られているなんてことも考えられる。
知らなかったけどダンナは、暴力団の人かも知れない。
そういった可能性がないとも言えないんです。
また、フリースペースの場合とかでも、人付き合いが苦手な人が集まってくる場合が少なくないのですから、トラブルが起きる可能性も、それだけ高くなります。
つきまとい行為がおこるかも知れない。自分がつきまとわれるかも知れない。
誰かが、宗教とかネズミ講まがいな商品をすすめようとするかも知れない。
選挙のとき、どこかの政党に入れるように熱弁を振るう人がでてくるかも知れない。
金銭の貸し借りが起こって問題になるかも知れない。
もう、いろいろなことが考えられるわけです。
以前取材をしたフリースクールの先生は、
「トラブルは歓迎です。人間同士ですから、トラブルが起こることによって、お互いに認め合うという場合や、人のことを考えるということができます」
と、おっしゃっていましたが、それは、トラブルに対して、準備ができているということなのでしょう。
また、一線を引いておかないと、支援者と相談者が“共依存 ”になってしまう可能性だってあります。
実際、そうとしか思えないような支援者もいるわけで、やっぱりある程度の一線を引くことが必要だと思うのですよ。
優しさや親切心は必要なものですが、それだけでは、どうにもならないことがあるものです。
ちなみにわたしは、支援者ではなく取材者なのですが、「ときどき支援者のくせに!」なんていわれることがありますね。
FHN放送局
巨椋修(おぐらおさむ)