改めて言う、一体何が問題か?

改めて問いましょう。



不登校の一体なにが問題であるのか?


ひきこもりの一体なにが問題であるのか?


ニートの一体なにが問題であるのか?



答えはひとつである。


問題は問題化されたときに、はじめて問題になる。


学校に行かないことは、問題ではないのです。

不登校など、本人と周囲が気にしなければそれだけのこと。

そう、ただそれだけのことなんですよ。

これは、ひきこもりにせよ、ニートにせよ同じです。

ただそれだけのことです。


すると必ずこう言う人がいる。


「子どもの将来が心配だ」


当たり前です。


子どもの将来を心配するのは、当たり前なんです。


子ども=学校


とだけしか想像できない人が慌てることになる。


「学校だけが教育の場じゃない」


ということに気がつけば、不登校を問題化しない方法など、いくつもある。

学校というのは、教育サービス機関ですから、サービスをうまく利用すればいいだけのこと。

子ども=学校と、決めつけてしまったら、合わない子や学校に傷つけられた子は、生きていくことが大変になってしまいます。

決めつけないで応用していけばいいだけのことです。



ひきこもりやニートも同じです。


「働かざる者食うべからず」


としか考えられない人が焦ることになる。


人類の夢はね。


働かないで食べていくことなんです。


もし40億円の宝くじが当たったら、もう会社なんてやめて働かないって人は当たり前にいますよね。


その人を“このニート野郎め!!”って攻撃しますか?


いえいえ、ほとんどの人は。「うらやましい、あやかりたい」ってヨダレを流すんです。

これわからも、わかるように、ひきこもり・ニートだからといって、攻撃することがいかにあほらしいことか。

人のことはほっとけ!って言いたくなりますね。


ここで一番大事なのは、本人の意思でしょ。

働きたいけど、働けないというのなら、それが問題であるわけです。

だったら、そこに焦点を当てて、現実と照らし合わせて何が一番いい方法かを考えていけばいいんです。

“働けない”っていうのは、文字通り働けないことなんですから、それを

「働け!」

っていう方がムチャなんですよ。

じゃあ、働けるようになるには、どのような方法や手段があるかを、現実的に考えればいいんです。


その人を食わしている人、ほとんどが親だと思うんですけど、そのスポンサーになっている人が、スポンサーをやめたいと思ったときに、それが問題になるわけです。

問題がそこいらにあるのなら、打つ手はたくさんあります。

もっとも現実的で有効と思われる手を打てばいいだけのことです。



大抵の場合、『不登校・ひきこもり・ニート』を問題化する親子というのは、

「子ども=学校」

「働かざる者食うべからず」

という固定観念に呪縛されていますから、問題化が表面にでる頃には、家庭内の人間関係がギクシャクしている場合が多いんです。


すると問題は、「子どもが学校に行かない」、「働かざる者食うべからず」ではなく、家庭内の人間関係になってしまっている場合が増えてきますね。


家庭内暴力であったり、口も利かなくなったりってなっちゃってる。


ほとんどの場合、おかしなことに、親は子どもが心配」で、子どもも親のことを思っているにも関わらず、口も利かない状態になっているんですね。


ほとんどの場合、お互いに

「アンタのせいだからね!」

ってなってる。


実にばかばかしいことじゃないですか。


家庭という小さな箱の中で、お互いに意地は張り合ってる。


考え方を多様化していけば、ほとんどは何とかなることばかりなんですけ。


クールになって、考えてみれば、方法なんていくつもあるものですよ。



FHN放送局代表
巨椋修(おぐらおさむ)